二次の観察について:その2

mixiルーマニ屋>「デリダとルーマン」スレのために。 ルーマン『社会の芸術』第二章「一次の観察と二次の観察」(XII 観察と脱構築) を巡って。その2。


【引用3】について:
Mさん、どうか ご自分の文章が「わかりやすい」と考えないでください。

私には、ルーマンの文章よりも難しく感じられます。

私は、議論がすれ違っているのかどうか、すれ違っているとするならどこでなのかを確認したくて 前エントリを書いたわけなのでした。それがわからないと、どこから話を進めたらよいのかもわからないのです。

説明は不要かと思ってしまったのですが、念のため書いておくと。 [ ]のついた文は──それを括弧にくくることで──、はっきりとそうは語られていない見解を 私_が 想像したうえで 付け加えた、ということを示しておいたつもりでした。さらに、特に自信の持てないものについては──それがはっきりとわかるように──、(?) を付して、そのことを明示しておいた ‥‥‥つもりだった、というわけです。
まるで伝わらなかった、ということのようですが。この点失礼しました。


【引用4】について:
「二次の観察」は、〈自己観察〉にも〈他者観察〉にも使われる概念です。【引用4】を、その意味でおっしゃっているのなら──おそらくそうなのだと思いますが──、そのとおりです。

ただし、「それ自体としては関与しない」とか「全く関係ない」という表現はしないほうがよい
というか、できない
とは思いますが。


【引用5】について:
前エントリで私が知りたかったこと(の一つ)は、Mさんのいう「自身」という語の含意でした。引用していただいたルーマンの文章で使われているものと同じ意味なのであれば、これでひとつ、理解が進んだといえそうです。とりあえず、Mさんの謂う「自身」は、──〈自己/他者〉という対照における「自己」ではなく──「目下焦点のあたっている、当のその区別そのもの」というほどの意味だ、と理解してよいですね?:

というのは観察することは自分自身を、また自分を構成する差異を、観察から奪ってしまうからだ。(『社会の芸術』p.89)


この理解でよければ、

「self」という語は混乱を引き起こしやすいので、「自身」という言葉を使うのはやめて、そのかわりに、

以下では「目下焦点のあたっている、当の・その区別そのもの」(略して「当の区別」)ということにしましょう。(よろしいでしょうか?)


これを踏まえて、前エントリの【定式1-2】を書き換えてみると、こうなるでしょう:

  • 【定式2】
    • c-1:脱構築においては、用いられている 当の区別p同一性書き換えられる
      • c-2:二次の観察においては、用いられている 当の区別p とは 別の区別q用いられる

もしこれでよければ、ここでは、つぎの二つの対照が1セットでなされていることになります。

    • 「当の区別p の同一性」[D] -と-「当の区別p とは別の区別q」[sO]
    • 「当の区別p 書き換え」[D] -と-「別の区別q の使用」[sO]


ここで──念のため──、明示的に問いをおいておきます:
[Q4]以上の定式でよいでしょうか。

これに肯定的に答えていただけると、ここでさらに もうふたつ問いを立てる事ができるのですが、それはお返事を待ってからにします。


同意が得られたと仮定して、もう少しだけ先に進みます。
[Q2]/【引用5】について:
上記の言い換えにもとづいて、[Q2]を、次のように書き換え、この形で問いを残しておく事にします。

  • [Q2b] 『グラマトロジー』においてデリダは、ヘーゲルを読み、ライプニッツを読み、ルソーを読み(以下略)、そして文章を(テクストを)書いて・出版したわけですが、その『グラマトロジー』のうちに登場するさまざまな区別のうち、「当の区別の書き換え」について語り得るのは、具体的には どの区別 についてのことなのでしょうか。
    たとえば、〈声/文字〉という区別でしょうか。〈エクリチュール/アルシエクリチュール〉という区別でしょうか。それとも他の区別でしょうか。

なお、こちら↓は「書き換え」がまったく必要の無い形で──無傷で──そのまま残ります:

  • 脱構築について、ファーストオーダーの観察に内在的に同一性の可変性というものを作り出していく と言われるとき、それ[=作り出していく事]は一次の観察なのか。それとも二次の観察なのか。(それとも別のなにかなのか。)


【引用6】について:
この箇所は、私の質問[Q3]についての返答でした。しかし残念ながら、[Q3]

二次の観察においては、一次の観察の用いる区別は流動化されるが、二次の観察の用いる区別は流動化されないといえるのかどうか、いえるとすればどういう意味でなのか、という問い

に関してここ↓を引き合いに出すのは、ミスリーディングです。したがって、[Q3]には、別のやり方で答えていただく必要があります。(つまり問いは残ります。)

この理論[=システム理論]は自己の主導的区別として、システムと環境の区別を用いる。この区別こそが脱構築に対する保留となるのである。そしてその上で、他ならぬこの区別を脱構築するのを当面は放棄することによってどんな認識利得を実現できるのかを示しうるのである。(p.162)


以下、ミスリーディングである理由を簡単に。
ここでいわれていることは、〈システム/環境〉という──システム論にとっては特別な──区別について、ここでその吟味を開始することはせずに、以下あくまで それを単に・ベタに使用するよ、というほどの態度表明です。
これに関して、〈システム/環境〉という区別を「二次の観察」に用いる際に、それをベタに使用する事を、「流動化しない」と表現するのは構いません(「どうぞご自由に」といういみで)。 が、それでもって、ルーマンの議論においては、「二次の観察において、その用いる区別は流動化されない」という議論構成になっていることを示した事にはなりませんよね。

注意してください。私は、「二次の観察において、二次の観察で用いられる区別は流動化されない」という議論構成になっていないという主張をしているわけではありません。
その点についての自分の判断を保留* したうえでの質問です。
* 「保留」という言葉は、上記の引用においても、これと同様の仕方で使われているように、私には読めますが。 ──いかがでしょうか。


以上です。


【追記】20050603 22:39