はてなアンスコム祭り

昼食。

タイトルはイメージです。

他者のような自己自身 (叢書・ウニベルシタス)

他者のような自己自身 (叢書・ウニベルシタス)

  • 第3研究 行為者なき行動の意味論
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3節がアンスコム、4節がデイヴィッドソン。第1・第2研究よりはましな議論運び。



[daisensei] によると── 分析哲学的行為論は、まず、

    • a)「なに?」の問いを〈行為/出来事〉区別によって、「なぜ?」の問いを〈動機/原因〉区別によって、扱った。

さらに、

    • b)一方では、「なに?」の問いを「なぜ?」の問いに従属させ、
    • c)他方では、区別双方の前者(行為-動機 系列)を優位に置いた。
  • これらのことによって、〈出来事-原因〉系列の言語ゲーム〈行為-動機〉系列の言語ゲームを峻別する──そして後者を優位に置く──行為の見方が登場したがウィトゲンシュタインアンスコム

しかし

  • まさにそのことが、そのあと、優位性の逆転──行為を〈出来事-原因〉系列のほうから捉えることへの逆転──(@デイヴィッドソン)への端緒を開いた。

(ここまでが§3)
ここまでの記述は「哲学史レジュメ」の一つの書き方として、「そんなものかな」とも思えるところなのだが、ここから先がフォローできない。

「ついていけない」とまで言うのは、一読しただけの現時点では控えるが。



[daisensei] の主張は、

    • A:(b)こそが、「誰が?」の問いを排除するのに役立っている

のだが、その理由にして含意は、

    • B:「出来事の存在論」は帰属の問題を扱えないが故に、「誰が?」の問いを捉えられない

というもの。(これが§4)

こういう議論運びの途上でアーレントの名などが引き合いに出されると 先を読もうとする気力が殺がれること甚だしい。勘弁してくれ。


一読した限りでの現時点では、Bは「常識に外れた」響きがするが、自信なし。ま、とりあえず「要再検討」ということで。しばらくここに滞留することにする。




ところで「action」を「行動」と訳す*のはなぜ? 「speech act」を「言述行為」と訳すのはなぜ?>訳者

* これに付き合ってデイヴィッドソンの著作タイトルは『行動と出来事』になってるw。
 ──と ここまでするからには相応の理由があるはずだ、
しかもそれは、かなり激しく「よっぽど」の理由でなければならない
と思うのだが、訳者による釈明はどこにもない。 しかも、大先生は、「行為」の上位概念として「pratique(s)」を用意しており、訳者さんはこれを「実践」と訳しているのだから、ここには「訳し分けの必要性」というテクニカルな問題も無いように思われる。
そういえば、リオタールの『抗争』も、似たような事情で
あちらはリオタール先生による分析哲学お勉強ノートを、やはりおフランスな方々が翻訳なさっておられたわけだが
ぶっ飛んだ訳語選択が盛りだくさんの、楽しい訳書であったことよなぁ。(遠い目)

行為と出来事

行為と出来事

文の抗争 (叢書・ウニベルシタス)

文の抗争 (叢書・ウニベルシタス)

つーか。universe を「宇宙」て訳すのはやめようや。とりあえず。

論議領域」じゃね?


【追記】20050711
‥‥と。書いたけど。
その筋の方によれば、このような事情が......:

議論領域/論議領域はdomain。universeはやっぱり宇宙と訳すしかないんだよな。domainを定義域としておいてuniverseに議論領域を持ってくる手もあるが。
universeは文字どおり存在者の総体のことであって、使っているメタ言語でその存在が認められる対象すべてのことを言う。一方、議論領域domain of discourseとはそのメタ言語を使った今の議論における領域、つまりある特定の理論に対する当該のメタ言語によるモデルのドメインを言う。だから議論領域はたいがいの場合、universeの部分になるのではないかと。
domainが関数とかに関して言われるときは定義域、domain of discourseの省略として考えられるときは議論領域となるんだろうか。

とのこと。勉強になります。

かつて私が使った教科書はもう古い、ということであろうか。