第9章「矛盾とコンフリクト」
[‥] 矛盾は、痛みと同様に、矛盾それ自体に対する反応を強いているし、少なくともそうした反応をおおいにうながしている。接続しうるためには、おなじみのことがらと矛盾しているものが何であるのかを知るには及ばない。言い換えると、そのように矛盾していることがらがそもそも何であるのかを見極めようと努力する必要はない。それどころか、矛盾していることが、それ自体の固有の権利において正当に評価されるには及ばない。矛盾は、何が矛盾なのかを認知することなしに反応することを許容させている形式の一つである。
何かが矛盾というゼマンティークによって矛盾として表象されることになるという点に、矛盾の十分な特徴づけが存している。まさにそうであるがゆえに、免疫システムを取り上げて、矛盾に関する理論を免疫学の一部門とみなすことが可能なのである。というのは、免疫システムは、矛盾を認知することなしに、環境を知ることなしに、撹乱要因を分析することなしに、それらのいずれにも属さない、純然たる識別に基づいて、作動しているからである。
[DQAの継続的な進行に──「矛盾をめぐるコミュニケーション」によって──問題が生じる際に励起されるシステムを「免疫システム」と呼ぶことにすると、この]免疫システムの まさしくこのように簡略化された作動様式が、社会学にとってかねてから不快の種であった。たとえば、社会学は、(法律上の犯罪事実の構成要件を吟味する必要がないばあいでも)何がゆえに犯罪者はその犯罪を犯したのか、何がゆえに無能な人は役に立たないのか、あるいは、何がゆえに異議を申し立てる人が異存があるのかを見極めるように努力することを求めている。そうすることによって、社会学は、社会の免疫システムに認知の要求──奇妙な非一貫性──を潜り込ませており、その結果として、社会学はそれ自体として、そうした要求に対する矛盾として社会を経験しており、そのことに基づいて、社会を十分に認知することなしに──この矛盾に依存してのみ──そっけなく取り扱ってしまっている。社会学的ユートピアは、社会学それ自体の免疫システムに依存して成り立っているのだが、この社会学の免疫システムは、社会の免疫システムと両立できないのである。そのようにして、社会学は、社会の病気になり、社会は社会学の病気になる ──このように両者が両立しえないということが、理論的に点検されないばあいには。[p.678-9]