ということが確認された何度目かの読了。昼食。
おうちにある本を読むよシリーズ。
- 作者: ニクラス・ルーマン
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2007/07/20
- メディア: 単行本
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■読後の「印象」に基づくとりあえずのメモをお仕事のかたわらに。(暫定見解につきツッコミ無用)
この本には「社会学的啓蒙」という語は(たぶん)一度も出てこないけど、でもやはりそのプロジェクトに指向したテクストなのであった。初期のころの話と──少なくとも表面上──異なるのは、議論が「反省理論」という土俵のうえで行なわれていること。
さて。この本では少なくとも3つのことが行なわれている: [1]「政治的コミュニケーションの統一性(つまりシステム)」の記述、[2]「政治システムにおける反省(的自己記述)」の記述、そして [3]「政治理論」の提案。
ここでは、「政治学理論(=学としての政治理論)」と「学にサポートされた政治理論」が区別されたうえで、両方に足を掛けた政治理論なるものは可能か、という課題が設定されているのである。
ルーマンは著作のなかで何度か「しかしそんなことできるのか?」と自問しながら、「わからん」と自答(?)し続ける。そこで読者としては「いったい君は、いつになったらその【本題】を開始するの?」と いぶかしむことになるが、なんと著作はそのまま終わってしまうのだった ( ゜д゜)ポカーン
「学でありながら、政治的コミュニケーションの中で使うことができる」政治理論は、少なくとも、政治的コミュニケーションが受け入れられる内容を持っていなければならない。つまり、政治的コミュニケーションのあり方を知っており、かつそれを尊重するものでなければならない。他方でそれは、政治的コミュニケーションの可能性を吟味でき[=批判]・拡張できるもの──オプションを与えるもの[=啓蒙]──でなければならない。そしてこのどちらの課題をも「社会学的に」果たそうとするから、つまり「政治システムの記述」を経由して行なおうとするから、それは 社会学的 啓蒙 と呼ばれる。
それがテクストとして提出されている以上、「学であり、かつ、政治的コミュニケーションの中で使うことができる」理論なるものの姿を──とりあえず抽象的にではあれ──想像するのは難しくない*。「政治的コミュニケーションの社会学的記述・吟味」は──政治システムの他の記述-と共に/に並んで-──政治的コミュニケーションとして流通しうるから。そして、「政治的コミュニケーションとして行なわれる政治システムの記述」は、「政治システムの自己記述(=反省)」の形式を持つ。だから、
ルーマンの実験は、「政治システムについての社会学的理論を、政治システムの反省理論という形式に適合するような仕方で 提出する」というものになる。
* と、あっさり書いてしまったが、こう片付けてはルーマンが何を躊躇っているのかがわからなくなってしまう。というか奴はいったい何を躊躇っているのだろうかwww。
これは魅力的な提案だろうか?
私にはよくわからない。
が、さしあたり「人を安心させる」効果は持つだろう穏当な提案のようには思える。さてさて。