涜書:ハリス『殺人と狂気』

朝食。

殺人と狂気―世紀末の医学・法・社会

殺人と狂気―世紀末の医学・法・社会

第5章「女性、ヒステリー、催眠術」、第6章「女性犯罪と激情」。
6章はこういうの↓のオンパレードで読むのがキツかった:

私を遠ざけないで、ロベール。私には何でもできます。あなたに良心の呵責を感じてもらい、楽しみの邪魔をするためなら、自殺してもいい。
あなたの心はいったいどんな岩でできているの。[‥]
よく聞いて! けっして心変わりしないと言ってください。さもなければ私はあなたと一緒にこの世から消えてしまいます。すぐにでも終わらせてしまったほうがよいのです。あなたのおかげでこんなに臆病に生きるくらいなら。[‥]

ああ………死よ! たぶんそれは私にとって祝福、憐れみ、赦しでしょう……ああ、死ぬことだけが私の望み……唯一の願い……天が私を奮い立たせる……そうだ……恥辱は墓の中で終わるのだ

私はあの小娘の顔に傷をつけたかったのです……それはあの子が夫の愛人だったからではなく、ましてや私の家名を汚したからでもありません。私が死んだら彼女が私の子供たちの母親になるかもしれなかったからです。

「拳銃を使う女revolveriennes」と「硫酸を浴びせる女vitrioleuses」という語があるというのをはじめて知りました。


先に進む前に、一つ重大な但し書きをしておかなければならない。これらの混沌とした文書と陳述、記録と宣告が、犯行そのものに引き続いて再構成される過程で、女性を襲った深刻な悲劇は必然的に薄められたということである。男性犯罪者を扱うこの先の章についても、ぜひとも同じ注意が払われなければならない。残念ながら、歴史的分析を試みるさい、紛れもない絶望を適切に説明するためには社会的説明や自己弁明的な陳述に単純に頼ることはできない。この絶望は、発狂とさえ言えるもので、犯行前とその最中に人々の多くを明らかに圧倒していたのである。これらさまざまなかたちの報告では、欲望、空想、葛藤の領域はわれわれにはかなり近づき難いということを認めなければならない。実際、ラブレターや詩という最も私的な記録でさえ、慣習的な修辞法と文体をもつ歴史的構成物なのであり、それは女性的本質の特徴づけに大いに寄与し、女性は責任無能力であるとする見方を促進したのである。[p.229]

その[=19世紀末の女性の激情犯罪におけるような様式化された自己表出]の構造と性質は、より限定された歴史的問題についての洞察をいくらか与えるように思われる。それは、犯罪それ自体に先立ってなされ、また裁判での評価の過程の中でもなされた女性的な表現の方法が、なぜそれほど執拗で、関心を引いたのか、という問題である。これらの決まった言葉の表現を理解しようとして、著者は、演劇やその他のさまざまな書き物──三面記事、連載読み物、さらには小説──のロマン主義的なヒロインのスタイルとの相同関係に驚かされた。これらさまざまな文章形式に見いだされる修辞法、つまりメロドラマについて批判的に分析したならば、使用されている言葉の性質や、それがしばしばうまく生み出している情緒的効果について、洞察を与えてくれることであろう。[p.243]