涜書:ルーマン『宗教の機能』

朝食。
秋のトッシキ祭り。「組織」について。

Funktion der Religion

Funktion der Religion

宗教社会学―宗教の機能

宗教社会学―宗教の機能

5章と2章再訪:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050714#1121269782

「ファン・ゲネップ」あたりの表記はまだ ご愛嬌というところだが、
「コミュナル」(©ターナー)が 一貫して地方自治体的」とされていて目眩がする。さすが大土方。偉大です。



『啓蒙2』の「組織の一般理論」論考に登場する〈組織における3種の「決定前提についての決定」〉が、ここでは「内的閉鎖」という意匠のもとで登場する──

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すぐうしろにも再登場↓

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「組織」の「境界設定原理」は 成員性membership である ‥‥と、しばしば謂われる。ルーマンもその見解を引き継いでいる。しかしこのテーゼは、議論を 組織の定義問題に関する袋小路に追いやるものである*。

むしろ「組織を-定義-する」というそのやり方自体が──直観的にいって──望みのないものだ、といいたくなるが。
* そうした議論がどのようにデッドエンドに至るか、という歴史 については、たとえばこの↓著作が 概観を与えてくれる:
組織と自発性―新しい相互浸透関係に向けて

組織と自発性―新しい相互浸透関係に向けて

見通しのよい学説史的概観を与えた後で、しかし著者もまた 同じその袋小路に いっしょに突き進んでいないかどうか**が、私としては気になるところだが。
** 著者が、組織境界の問題を、「理論的に」解決されるべき事柄だと考えているのなら──そのようにみえるのだが──、「いっしょに突き進んでいる」のである。(そしてそう考えている限り、最初から「組織-の-オー■ポイエーシス」を解明する構えはとっていないことにもなる。その場合、「組織はオート■イエティックであるか否か」についての著者の判断は──学説の吟味によって獲得されたものではなくて──著者がはじめから採用している「理論的な構え」によって、おのずと・あらかじめ決まってしまっているように、読者(=私)からは みえることになる。)


それはそうなのだが、5章の議論をみると──いつもそうであるとおりここでも──ルーマンは、私の想像を少し超えていて、私が考えているよりも もうちょっと偉いようだ。ここでは、「成員性」は、まずは確かに「組織の境界設定」というトピックとともに登場する。が、しかしそれは「決定は どのようにどこに帰属されるか」という問いのコンテクストの中で、でもある。──およそ問と解の存するところ、おのずとまた機能的等価物も存す。(そして派生的諸問題もまた....。)

しかも、トピックの一つは、成員性を与えることに有利な初期条件が消滅した後も、





まずは「境界設定原理」のような言葉遣いをやめるべきだろう。(おそらくルーマンは、一方では本気でそう考えているから こういう言葉遣いをするのだと思うのだが。 )
論じられるべきなのは──そうした言葉遣いによって見えにくくされている──「決定」のほうである。つまり、決定(というコミュニケーション)の接続様式こそが

そして、そこにおいて 帰属のために、どのようなリソースが──たとえば「成員性」が(そのほかのあれこれと並んで)──どのように用いられているか ということこそが

焦点化されるべきだし、 解明explicate されるべきなのである。「原理」や「定義」に頼ることなく。

そうした作業をやってこそ、そこではじめて、そのような議論は──(コミュニケーションという)「要素」の接続様式を記述したのだから──「システム論的 で_あ_る」と呼ばれる資格を持つだろう。
別に持たなくてもいいが。



ルーマンはこの章で、それを──少なくともちょっとだけは──やっている。
少し偉い。