50年代中後半に立て続けに似たような主題とタイトル(産業経営社会学/経営の社会構造)をもつ・どちらも教科書的な内容の 書物が出された理由はなんでしょう。(両方読んでもわからなかった。)
- Ralf Dahrendorf, Industrie- und Betriebssoziologie, de Gruyter, 1956
- ラルフ・ダーレンドルフ、『産業社会学』、池内信行&鈴木英壽訳、千倉書房、1961/03
- Ralf Dahrendorf, Sozialstruktur des Betriebs - Betriebssoziologie, 1959/1972
- ラルフ・ダーレンドルフ、『経営社会学』、石坂巌訳、三嶺書房、190頁、1,890円、ISBN:4914906317、1985/08
邦訳出版には30年以上の開きが。
『経営社会学』のほうの目次はこちらに:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040907#1094538504
ところで「制度とは構造化された役割関係のことだ」というヴィジョンは、もうこの時点(56年)で「共有見解」となっていたようです。ダーレンドルフが直接に参照しているのはシェルスキーやフォン・ヴィーゼなど。
たとえば第4章「産業経営の社会構造」冒頭、第一節「社会的制度としての産業経営」[p.75-77]:
産業経営は、
- 財貨生産なる経済的目的を志向し、
- 技術的手段の体系によって組織され、
- 法律的規制によって認可され、
- そしてとくに、この組織を支配している社会的な価値設定によって規定されるところの、
社会的役割の制度である。かかる役割組織として、産業経営は、「持続的な社会的行為構造または機能構造」(H.Schelsky*)の意味における社会的制度である。
[‥]
フォン・ヴィーゼは正しくも、制度は「人間と職務が等値されるとき」**に、人間の全体としては把握されうるということを指示した。したがって、制度の際には、アソシエーションまたはゲマインシャフトの際のように、人間人格の全体性における個人の集合が問題ではなく、一定の行動期待をもつ地位、いわゆる社会的役割の調整が問題なのである。企業者、技師、職長、補助労働者は、かかる役割である。[‥‥]
* Industrie- und Betriebssoziogie; in A. Gehlen und H. Schelsky(Hg.): Soziologie (1955); S.179
** Artikel Institution; in: Handwörterbuh der Sozialwissenshaften, 7 (1954); S.297.
・・・どうも日本語が微妙ですな。
本日の笑うところ[p.130]:
反復的労働過程と単調という主観的体験間の関連についての[メイヨーの]研究は、かかる関連を強調することはしばしば次のことを表示するに過ぎないということを以前にすでに示した。すなわち、
社会学者は‥‥これやあれやの労働は致命的活精神破壊的なものであるに違いないと考える。しかしこのことは、社会学者がこの労働をしなければならないときに、彼らがそう感じるであろうということを意味するにすぎないのである*。
* F. Zweig: The British Worker (1952); S.111.
・・・どうも日本語が微妙ですな。
反復的機械労働が単調(で つまらん)なんて、働いてる本人たちは思ってないよ、という話。