実証主義についてのメモ:北田「〈構築されざるもの〉の権利をめぐって」 - 2005-12-31 - 呂律 / a mode distinction

遅い夕食。俺がいちからコチーク(・∀・)シュギ!を勉強するスレ。俺コチ。

構築主義とは何か

構築主義とは何か

カトシュー論考4周目。北田論考3周目。どっちもむつかし杉。



実証主義」は奇特な思潮である。
 一方では。特定の科学論的議論の思潮全体が、その理論的主張内容の「真/偽」によって決せられ(さらには打ち倒され)るなどということはめったにないことなのに、実証主義の歴史においてはそれが生じた。しかも、実証主義が瓦解したのは──関係者に律儀な方々が多かった、ということなのだろうが──おおむね実証主義のサークル内での自己批判によって、だった。これは珍しいことではないかとおもう。

実証主義」というのは、「扱う範囲を〈ポジティヴなもの〉に限定しましょう」という主義・研究態度のことである。だからその主張内容は「なにを〈ポジティヴなもの〉であるとみなすか」によって変わる→辞書的なまとめはこちら。そして、実証主義哲学が瓦解したのは、「なにを〈ポジティヴなもの〉であるとみなせばよいか」について誰もが納得できる見解を、結局のところ誰も提出できなかったからだった。

 他方では、──そのような次第で──こんにち実証主義の哲学的教義を信奉しているひとはほとんどいないのに、しかし「実証主義的な調査・研究方針」は 社会科学のほとんどの領域で 広く採用されている。
 実証主義を吟味(したり批判したり)するのは難しい。「実証主義的な調査・研究」は──「実証主義哲学」を誰もくそまじめには信じていない以上──確固たる理論や方法に則って行われているわけではないので、そこを突いても「自分のこととして」困る人がほとんどいない。


 こうした事情は奇妙なことであるように思われる。が、しかしそれを「奇妙なことだ」と思うためには、「学問というものは、ちゃんと基礎づけられた理論や方法に則って行われている筈だ」という前提的信念が必要だ。そして。
 私もときどきそう思ってしまっていることに気付かされることがある。たとえば北田論文を読みながら、それに改めて気がついた。
 著者によると、構築主義者は実証主義者を批判したのだという。ところがここで、批判される側と批判する側の主張内容の逆転が生じている。著者が指摘しているのは「構築主義者が実証主義的な主張をする」というほうの逆転現象である:

(C2)(b)[「eが存在する/しないの判断は態度を留保する」]のように実在性への問いを留保したり、余剰なものとして無化しようとすること [存在論の解消]。こうしたHC[=歴史的構築主義の議論の方向性は、[‥]「語り得ぬものについては語り得ない」というきわめて近代的な認識論中心主義──[‥]「裏返しの実証主義(ギンズブルグ)」──を体現してしまっているとはいえないだろうか。[p.266]

「語りうるもの」〈ポジティブなもの〉となっている、という いみ・仕方 で「このテの歴史的構築主義実証主義的だ」という指摘は正しいように思われる。
 他方──著者は明示的な指摘はしていないが──、テクストのなかには、「実証主義者が非実証主義的な主張をする」という逆転現象も登場している:

いっさいが言説を通過せざるを得ないということは分かりました。しかしこれを超えたところに、あるいはこれ以前のところに、これには還元し得ないなにものか、よかれあしかれ、わたしがなおも現実と呼びつづけたいものがあるのでした。この現実がなくては、どのようにしてフィクションと歴史の区別は付けられるのでしょうか。(Ginzburg[1992=1994:98])

[p.262]

この主張↑は「扱う範囲を〈ポジティブなもの〉に限定する」という実証主義の格律を、もはや飛び越えてしまっている(つまり「ちゃんと実証主義的」ではない)ようにみえる。


こうしたことが往々にして生じるので、「実証主義の吟味(ましてや批判)」はとても難しい。
おそらくは(単に)、「学問というものは、ちゃんと基礎づけられた理論や方法に則って行われている筈だ」という前提のほうが間違っているのであって、だから、「実証主義」という調査・研究方針を一括して論じることは、できないのである。