遅い昼食。俺がいちからコチーク(・∀・)シュギ!を勉強するスレ。俺コチ。

- 作者: 上野千鶴子
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2001/02/01
- メディア: 単行本
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追記:20071219 http://d.hatena.ne.jp/contractio/20071219
北田論考3節「存在の金切り声」。
多摩川再訪。
- 打者Bの頭部に向けて「危険球」が投じられた。
- ベンチにいたAが突然「よけろ!」と大声で叫んだ。
- その声に驚いたCが心臓発作で倒れ、
- 病院に担ぎ込まれて 一時間後に死亡した。
後日のいろんなひとの証言:
- (1) Aは声を発した
- (2) AはBに警告を与えた
- (3) AはCに心臓発作を起こさせた
- (4) AはCを殺した
- (5) Aは盗塁を決めた
- (6) Aはサインを見逃した
■論点二つ:
- 〈(1)〜(4)〉と〈(5)(6)〉とを区別できないと困るかどうか。
- 「(1)〜(4) と記述されうるような(おなじひとつの)出来事eが存在する」といえないと困るかどうか。
直観的にいって、私には、どちらも認めないと困るように思われる。
そしてついでにいえば、私は自分が反実在論者ではないと──やはり直観的にだが──惟っている。
そうすると──そうであるがゆえに──、著者と自分のスタンスの距離を測るのは、そうとう微妙な話になる。「ほとんど見解は一致」しているのか。それともそうではないのか。
とりあえずは、「では、それぞれどういう点で困るのか」について考えてみるべきか。
ところでどうでもいいはなしなんですけどー。
これ↓、編集者は気にならなかった(あるいはどうしようもなかった?)のでしょうかという...:
第6章カトシュー論考注9:
(9) [‥]なお、つけ加えておけば、バトラーは一貫して“constructivism”の語を使っている。
第8章竹村論考注4:
(4) シュディス・バトラーは“constructionism”と“constructivism”を区別して、前者を擁護し、後者を退けている(Bodies That Matter)。バトラーによれば、後者(constructivism)の見解では、たとえば人間主体を文化や言語によって社会構築されたものと考えていても、その構築を固定したものとしてとらえるので、結局は「言説的な一元論や言語中心主義」に帰着する。いわば、文化や言説や権力による決定論になってしまうと言うのである。[‥]
まぁ何をいっているのかはわかりませんが。