涜書:ドラッカー『私の履歴書』

ドラッカー20世紀を生きて―私の履歴書

ドラッカー20世紀を生きて―私の履歴書

日経新聞の名物コーナーに掲載されたものに、編者が解説を加えたもの。
偉い人の自伝に偉い人が登場するのは珍しくないけど、ドラッカーの場合はそれが半端ではない。ひたすらびつくりしながらあっと言う間に読み終わってしまった。


なかでも驚いたこと3つ。

  • 1938年に書かれたデビュー作『経済人の終わり』は、「ナチスユダヤ人の抹殺に踏切り、さらにソ連と手を組む」だろう(大意:p.87)というトンデモな予想を書いた本で、当然ながらほとんどの出版社に出版を拒絶されたのだった。どうしてこんな主張を自信をもって書けたのかということが謎なのだが、なんとドイツの新聞社に勤務していたとき、ヒトラーゲッペルス(および他の主要政党のリーダー)にインタビューをする機会が何度もあったのだという。(インタービューしてみて「こいつら本気だ」「誰も奴らを止められない」と思ったわけですな。だから。)
  • ROI という概念は1920年以前にはすでに、実際にデュポン社で財務管理に使われていた。この「デュポン式財務管理」を確立したドナルドソン・ブラウンが──倒産寸前だったGMを救済するためにGMに移籍しており──、ドラッカーGMの調査を依頼した。
  • 企業年金受給権者の保護を目的とする1974年の米連邦法「従業員退職所得保証法」(エリサ法)の骨子は、1950年代に、GMの社長(チャールズ・ウィルソン)とドラッカーがつくった。

三つめのが一番驚いた。

 まだ第二次世界大戦中のことだ。ドラッカーが初めてウィルソンと会った時、「プロフィトシェアリング(会社と従業員が利益を分け合うこと)をどう思う?」と聞かれた。いわば利益共同体のような仕組みに興味を持つとは、いかにも労働組合出身CEOらしい。ドラッカーは賛同し、「利益の分け前が少ないと従業員はバカにされたと思うでしょう」などと自分なりの提言をした。
 ウィルソンとドラッカーが最初に参考にしたのは、第二次大戦後の西ドイツで導入された共同決定制度だ。これは従業員に対して経営参加を認める制度で、当時の米国では目新しい考えだった。ドラッカーはウィルソンの代役として全米自動車労組(UAW)に意見を求めると、「組合は経営の一部にはなれない」と拒絶された。
 そこで、二人はGMの年金基金に注目し、会社の利益の一部を従業員の年金へ拠出する案を考えた。会社が利益を出していれば従業員の年金は守られ、組合によるストライキで会社の経営が傾けば従業員の年金財政は悪化する。これも一種の利益共同体だ。
 最終的にウィルソンが用意した案は革新的だった。というのは、

  • 1.年金資金は国債ではなく株式へ投資する、
  • 2.運用のプロに投資を任せる、
  • 3.自社株への投資は原則禁止する、
  • 4.一つの企業に年金資金の一〇%を超えて投資してはならない

などの原則を打ち出していたからだ。今では当たり前に聞こえるが、当時は生命保険会社のように国債に投資する企業年金が大半で、株式に投資する企業年金でも投資先はもっぱら自社株であった。
 一九五〇年、GMはウィルソンの原則を取り込んだ年金制度でUAWと合意し、世界最初の近代的企業年金を発足させた。この原則はほぼそのままエリサ法にも取り込まれた。そんな経緯を踏まえれば、同法を「ウィルソン・ドラッカー法」と呼んでもよさそうだ。[編者解説:p.120-121]