いよいよレジュメをつくらないといけないよ。
なにはともあれ一気読み再度。
まずは。
90年代の論考からは(少なくとも表向き)消えてしまったようにみえるモチーフについて
をピックアップ。
1979「数量関係・組織・意思決定・利害関心」
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060806/1154809863
- ドイツ経営学の三つの主要な流儀は、グーテンベルグ経営学経済学、カーネギー学派流の意思決定論(〈人間行動+意思決定〉のシステム論)、そして、両者に批判的なグループである。
- 第2グループが指摘するように、第1グループは、量的最適化を求める意思決定の論理学に帰着し、
- 第3グループが批判するように、それは資本指向的であって、被用者の利害関心を正面から採り上げることがない。[大意:p.176]
- すなわち従来の理論は、システム管理者・システムの維持と存続を有利とする人々の利害と重なりあっており、「現状肯定的」であったし、そのことに無反省である点で「イデオロギー的性格」をもっていた。また、このシステムのなかで不利な位置におかれている被用者の状況や被用者の利害を実現するための条件そのものにはほとんど関心をもたなかったという点で、「資本指向的」だった。[大意:p.177]
- したがって、被用者利害を以前よりも陽表的に論じることが必要*。経営経済学が真にすべての利害を扱えるようになるにつれ、実質的に、企業内の利害調整者・共同利害の推進者の役割として現れる管理者の立場に近づく。[大意:p.179]ただしこの主張は、Chimiekewicz という人の見解を敷衍したもの。
- 「被用者の利害」を錦の御旗に 第1、第2グループの批判のみに終始している第3グループは、実は、被用者の利害をちゃんと扱えてるわけじゃない(からダメ)。[大意:p.179]
1981「社会理論としての社会システム論とハーバマス=ルーマン論争」
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060806#onajikoto
- ルーマンの社会システム論は、今までのところ、[‥]「コンフリクトをはらむ状態」の分析には冷淡であり、組織の研究でも政治システムの研究でも、関心は、選択のはたらきの受容を可能にするメカニズムに集中されてきた。つまり、ルーマンの社会システム論は、[‥]コンフリクト生産の複合性を濃縮する装置に欠けている。[p.31]
長岡さんは この時点ですでに かなり「ルーマン型システム論」にコミットしていた──そして時が進むにつれますますコミットは深まっていった──わけで、そうであるからには これ↑は
〈「受容」にばかり目が向いていて、「コンフリクト」を正当に扱っていない(からダメだ)〉といっているだけでなく、
「正当に扱える(望みはある)はずなのだから やれ」「自分はやる(途を探す)」というつもりで書いていたはず。
1983「管理と支配についてのノート」
かつて歴史上に登場したことのない「自由で平等な生産者達の連合」(マルクス)についてのノート。しかも大部分はオーケストラと指揮を巡るアドルノの論考──『音楽社会学』──についてのメモ。
が、実際のオーケストラについておこなわれたフィールドワークと比べれば、このテの↑思弁的な議論は(中略)とか書くと角が立つので書かないでおく。(←書きませんでした。)
- 現代社会は「組織社会」だと言われるが、組織は一つの点で著しく特殊である。たとえば、政治においては人々は少なくとも形式的に平等であるのに、企業や官庁ではそうではない。[大意:p.301]
- 経営学が主として研究してきたのは、システムの動態的安定性の維持のもとでの能率の向上であり、[‥]管理方式であった。いうまでもなくこのような研究関心は管理者側の関心に対応している。[p.302]
- 現代社会はなぜ組織を簇生させなければならないのか。
このように問題を立てなければならないとすれば、組織における指揮と管理への問いはさらに別の重要性を増し、支配なき管理の問題、自主管理を巡る探求はいっそう重要になるはずである。[‥] 経営学はこれを[‥]ザッヘの次元でも語らなければならない責務を負うている。[p.303]
1984『企業と組織―グーテンベルク経営経済学研究』
これは、読めば「嗚呼(元?)マルキストであることよなぁ」と思わされる著作。「サイモンは組織を、意思決定にもとづいて解体→再構築しようとしたけどそれは上手くいってないよ」
「解体=組織の物象化批判 はいいけど、再構築はできてない。企業の背景にある資本主義的な(略)とか(略)とかを見ないと所詮はだめなんだよ」(大意)
云々、と。──いうようなことが書いてあったような気がしなくもない。
『企業と組織』は──どっか逝っちゃったたので──読み直していないが、1984の「企業の経済システムと意思決定」は概ね重なる議論であろうかと思われる。
こうした議論が、1986の「経営学の新動向」あたりから変わってくる.... 様な気がする。
- ここでは、経営学の批判性やイデオロギー性への反省は、「自己準拠」という術語のもとで扱われるようになっている。
- それに気がついてひとつ戻って1984「企業の経済システムと意思決定」を読み直してみると、こちらでも経営学の根本問題は──もはや「複数の利害関係の適切な勘案」ではなく──〈構造と行為の循環関係〉だということになっている。
- そして、1989年/1990年以降、論調はいよいよ「実はルーマン偉い」(大意)とか「そこでルーマンですよ」(大意)とかいう感じに...。
以上、「長岡克行の変貌」──というまとめで(いいのだろうか。これはいわゆる転向ですか?)
以上はあくまで前フリ。ちっとも本論に入らないがここで一旦寝ることにする。(明日は朝から会議&研究会ですし....)