「哲学的文法」再訪:黒田『知識と行為』

昼食。クチヨセ中。

知識と行為 (1983年)

知識と行為 (1983年)

文法的注釈: 〈文法的/経験的・事実的〉

二世界論の罠から経済的に逃れるやりかたについて。

 ある体験の原因について語ることは、その体験の対象について語るのとは確かに別なことである。いま庭先で昼下がりの要綱を浴びている牡丹の花についていえば、牡丹の花弁から私の目にいたる反射光の伝播や、[..] 神経伝道の生理過程を指して私の視覚体験の原因と呼ぶことにいささかの不都合もない。しかし私の目を楽しませているのはあくまでも牡丹花の豊麗であて光線や神経過程ではないのだから、それらを私の知覚の対象と呼ぶのはもとより不当である。たとえばそのように「体験の原因」と「体験の対象」とは違う、二つは異なる概念である、と言い切って構わないと思う。
 しかしヴィトゲンシュタイン流に言うなら、これはあくまでも「文法的な注釈」なのであって、じかに実在世界のありようを述べる経験的・事実的な言明ではない。そもそも「xの原因」とか「xの対象」とかいう概念は、「xの兄」や「xの債権者」のようなふつうの関係概念とは違って、じかに世界の事物を、それらが適用できるものと適用できないものとにわかる分類の機能を持ってはいない。だから

  • この世界では「知覚の対象」の外延と「知覚の原因」の外延とは決して交わらない

とか、

  • 知覚の対象と原因とはまったく異なる領域に属する別個の存在である

とかいった主張を右の文法的注釈に結びつけるべきではあるまい。[p.243-244]