ちっとも腑に落ちない。承前:id:contractio:20071115 / id:contractio:20071227 / id:contractio:20071229
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第二章 可能的なものの終焉
準拠問題。
「しなうflex」と「しなわないfail to flex」は互いに背反的であり、両者によって、適当な圧力のもとにある物の領域が尽くされる。だが、両者ともその領域の外の物には適用されない。そこで、「しなう」が或る物に適用されないとしても、その事実から「しなわない」の方がそれに適用されると推論することは一般的にはできない。しかし、適当な圧力のもとにある物の領域では、二つの述語は二分法をもたらすばかりでなく、「しなやかである」と「しなやかでない」とに正確に一致する。素質的述語が行うことは、いわばこの二分法を、物のより広いクラス、あるいは、さらに全クラスにまでも 投射するproject ことである。そこで、「しなやかである」というような述語は、「しなう」というような述語の拡張あるいは投射とみなすことができるだろう。問題は このような投射を明示的述語のみによって定義することである。[p.83]
ルーマンのいう「形式」──〈形式/形式が排除するもの〉──ですな。
素質disposition の問題の、この簡単な概観を終えるに当たり、先々のために、次の二つの点を記憶にとどめておいていただきたい。すなわち、
- 一つは、一般的問題の定式であり、
- いま一つは、素質的述語は明示的述語同様、現実的な物を分類するためのラベルである ということの認識である。[p.88]
まったくどうでもいいことだけど。
邦訳89ページのあたり──「現実的経験における可能的なものの織地によって埋める」──を、ルーマンが──『啓蒙』の──どこかで引用していたね。