グッドマン1940-50年代のお仕事。数千年ぶりに再訪。
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目次
- 反事実的条件法の問題
- 可能的なものの終焉
- 帰納法の新たな謎
- 投射の理論に向けての展望
「投射」と「種類」
本書と『世界制作の方法』との関係について。
第4版(1983)への覚書
投射可能性が統語論的あるいは意味論的には定義されえない という結論は、心理学にとってきわめて重大であると認められるとともに、そこから生ずる諸帰結に関する活発な討論を促した。私自身の最近の著作──たとえば『世界構成の様々な道』(Ways of Worldmaking)──において、本書で展開された帰納法的妥当性の取り扱いは、予期しない分岐を生じた。というのも、多くの種類に関する正確さ(その中には、サンプルの公正さや、表現や構想の正確さが含まれる)は、分類の正確さを含むからである。そうして、分類の正確さは、あきらかに、「自然的な」種類を発見する問題ではなく、適切な種類を組織する問題であるから、擁護の役割が考慮されなければならないのである。 [p.20]
というわけで、ご本人の弁によれば、「有意な種」という論題は、「投射可能性」の「擁護」という論題に関係がある ということらしい。そりゃぁどういうことですか。
■パットナムの解説
彼[グッドマン]の[帰納法の]モデルにおいては、仮説は、文化的・科学的歴史の道程において変化するような仕方で秩序づけられている。グッドマンが、過去の帰納的実践の光に照らして仮説を秩序づけるのに用いる原理、たとえば「擁護」の原理でさえ、彼の考えでは内在的なものではなく、われわれの共同体の実践についての哲学的反省によって手に入れられるものである。[p.2]
[...] グッドマンの見解の中にあるものは、そしておそらくウィトゲンシュタインの見解の中にもあるものは、
- われわれの基準に一致するか否かにしたがって正しかったり誤りであったりする実践
なのである。そしてこの基準は逆に、
- われわれの実践に一致するか否かにしたがって正しかったり誤りであったりする。
ここには循環、あるいはより適切には、螺旋的関係があるが、グッドマンは、ジョン・デューイとともに、それを良性のものとみなしている。[p.3]
[...] 擁護は、過去においてわれわれがひとつの述語を現実に機能的に投射した頻度に依存する。
内在的?
第4章 投射の理論に向けての展望
述語の擁護(entrenchment)
[..] あい対立する投射の間で正しい選択を行う規則をわれわれはどうやって工夫すればよいのか? [..]
われわれは、二つの述語の過去の投射の記録を参照しなければならない というのが答えになると思う5。明らかに「グリーン」の方が、「グルー」よりも早くから投射され、またはるかに頻繁に投射されているベテランとして、より印象深い伝記を有している。述語「グリーン」は述語「グルー」よりも、より強く擁護されている(entrenched)と言えるであろう。
われわれがこのような区別をすることができるのは、われわれが過去の現実の投射から出発するからである。もしも、単に仮説とそれに対する証拠のみから出発するならば、こうはいかない。[..]
したがって、投射不可能的な投射を除去するための一つの原理は、もしも、投射がそれよりもはるかに強く擁護されたほかの述語の投射と対立するならば、取り除かれなければならない、というものである。[..] [p.148-150]5 述語「Q」は、「すべての「PはQである」というような仮説が投射されているとき、投射されていると言う。
この訳者のひとは「actual」を「現実の」と訳すのだが、「実際の」としたほうが文意が通りやすいと思う。
■まとめ
ヒュームと同じようにわれわれは、ここで、過去における繰り返しに訴えてきた。ただしその場合、観察されたものに繰り返し現れる特徴という意味の繰り返しとともに、この語の文字通りの意味における繰り返しにも訴えてきた。いくぶんカントと似た意味において、
- 帰納的妥当性は、提示されたもののみに依存するのではなく、
- それがどのように組織されるかにも依存する
と我々は言っているのである。ただしわれわれのいう組織化は、言語の使用によって行われるものであり、カントのように人間の認識の本性の中にある、不可避的なものあるいは普遍的なものに帰属させられるものではない。ごく大まかに言うならば、
- 経験の繰り返し現れる特徴の中で、妥当な投射の根底にあってそれを支えるものと、そうでないものを区別するものは何か
という問いに対する答えとして、私は、
- 前者の特徴は、われわれが、それを現すために、習慣的に投射してきた述語を採用してきたような特徴である
と提案しているのだと言えるだろう。[p.151]
6. 概観と考察
「どんなものが規則正しいといえるのか」についての規則は無い。
[...] 帰納的な妥当性の根源は、われわれの言語使用にある。一般に認められているように、妥当な予言とは、これまで観察されてきたものの中にある過去の規則性に一致するような予言のことである。しかし、何がいったいこの一致ということを構成しているのか、ということがいつもながらに困難な問題であった。私がここに展開してきた提案は、
- 観察されたものの中に見出される規則性とこのような一致は、われわれの言語的実践の機能だ
ということである。そこで、
p.177 までの議論が どうしてこのようにまとめられますか。
〈genuine kinds / artificial kinds〉:〈natural kinds / relevant kinds〉
われわれの投射可能性の取り扱い方は、ほかの方面にも有望である。それは、「本来の」(genuine)種類を「人工的な」(artificial)種類から区別する方法、
あるいは、より本来的な種類をより本来的でない種類から区別する方法を提供し、その結果、あるものどもが同じ種類である、あるいは、ないとか、あるほかのものどもよりもより同属的(akin)であるとかいった主張を行う通常の言明を解釈できるようにするであろう。というのも、たしかに、クラスの擁護は、それらの種類としての本来度の尺度となるからである。 おおまかに言うならば、二つのものは、両者に適用される、より特殊的で、より強く擁護される述語があるほど、より同属的なのである。 種類に関する十全な理論は、ひるがえって、着想や法則や理論の単純性に関する厄介な問題の或るものに照明を投げかけるであろう。なぜならば、少なくとも一つの重要な意味において、それらのケースのすべてに適用される、より特殊的で、より強く擁護される述語があるほど、よりランダム性が少ないからである。このことを、「堆積Sの中のビー玉のすべての袋詰めは色が一様である」という仮説に対する二つのあい異なる証拠の集合を使って説明しよう。その一つは、すべてをSの一番上の沿うから取り出した調査済みの袋詰めの集合であり、もう一つは、Sの様々な総の内側や外側から取り出した調査済みの袋詰めの集合である。はじめの、よりdランダム性の少ない集合に含まれるすべての袋詰めに敵称される述語「Sの一番上の層にある」は、二番目、あるいはそれよりもランダムな集合に含まれるすべての袋詰めに適用される、同じ程度に狭い、すなわち特殊的なほかのいかなる述語よりも(継承)擁護が大きいのである。[p.182]
こ、これが結論ですか....。