承前:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20071115/p1
|
|
1978年の著作。
冒頭の「記号symbols」は、「象徴」と訳されるべきであった:
Ways of Worldmaking第1章 ことば・作品・世界
記号を使って無から無数の世界がつくられる ──エルンスト・カッシーラーの仕事の主立ったテーマを、皮肉やなら一口に、こう要約するかもしれない。これらのテーマ──世界が多数存在すること、「与件」とは見かけにすぎないこと、理解という創造的な力、記号の多様性とその造形の働き──は、私自身の思想にも欠くことができない要素である。しかしこれらのテーマをカッシーらがどんなに雄弁に説き続けてきたかを1、ときおり私は忘れてしまっている。それは一つにはおそらく、彼が神話へ力点を置いたこと、文化の比較研究への彼の関心、そして人間精神についての彼の話などが、神秘的蒙昧主義、反知性的直観主義、もしくは反科学的人間中心主義へとむかう現今の風潮と誤って結びつけられてきたからだろう。[...]
Countless worlds made from nothing by use of symbols ― so might a satirist summarize some major themes in the work of Ernst Cassirer. These themes ― the multiplicity of worlds, the speciousness of 'the given', the creative power of the understanding, the variety and formative function of symbols ― are also integral to my own thinking. Sometimes, though, I forget how eloquently they have been set forth by Cassirer,[1] partly perhaps because his emphasis on myth, his concern with the comparative study of cultures, and his talk of the human spirit have been mistakenly associated with current trends toward mystical obscurantism, anti-intellectual intuitionism, or anti-scientific humanism.これからする議論での私の狙いは、カッシーラーと私が共有するいくつかのテーゼを擁護することではなく、それらが提起する重大な問いを精細に検討することである。
- 多くの世界がある というのは正確にはどういう意味でなのか
- 本物の世界 を いつわりの世界 から区別するものは何なのか
- 世界は何から作られているのか
- 世界はどのようにして作られるのか
- その制作に際して記号はどのような役割をはたしているのか
さらに
- 世界政策は知識とどのように関連しているのか
これらの問いを正面から取り上げなくてはならない。[p.1-2]
堅固な基礎を求める誤った希望が一掃され、世界なるものがヴァージョンにすぎない さまざまな世界 に席を譲り、実体が関数へと解消され、与えられたもの とは 把握されたもの であることが認められたあかつきに、われわれは、世界がどのようにして作られ・検証され・そして知られるのか という問いに直面する。[p.11]
- まとめ:世界は世界からつくられる。メイキングはリメイキング。
類kinds: 演奏類performance-kinds・有意類relevant kinds・人為類artificial kinds・自然類natural kinds
「有意類」の──本書における──初出箇所。
同一指定[は編成に相対的である。それと]同様、反復も編成に相対的である。出来事を種へ分類する仕方次第で、世界は収拾がつかないほど異質なものから作られることにもなるし、あるいは堪え難いほど単調なものにもなる。今日の実験が昨日のそれを反復するものか否かは、二つの出来事としてそれらの実験がどんなに異なっているかにかかわりなく、それらが共通の仮設を検証するかどうかによる。ジョージ・トムソン卿がこう言うとおりである。
何か異なるものがつねに存在するものだ(……)。実験を反復するとあなた方が言う場合、その意味はつまるところ、理論によって有意味だとされた実験の特徴をすべてあなた方が反復するということなのだ。言い換えれば、あなた方は実験をその理論の一例として反復するのである。
"Some thoughts on Scientific Method" (1963)同様に、ひどく異なる二つの音楽演奏は、にもかかわらず同じ楽譜にしたがっているなら、同じ作品の演奏である。演奏に不可欠な特徴 を 偶然の特徴 から区別するのは、表記体系に他ならない。そのようにして 演奏の種(perfomance-kinds)が選別されるのであり、作品とはこの演奏の種に他ならないのである(...)。そもそもものごとは、何が同じ仕方か ということ次第で、「同じ仕方で進む」か「同じ仕方で進まない」かのいずれかである。[...] 帰納するためには、ある集合をさしおいて 別の集合を 有意な種 だとみなす必要がある。このようにしてのみ、たとえばエメラルドについての我々の観察が規則性を示すのである[...]。我々を驚嘆させる自然の斉一性にせよ、反対に、我々を憤慨させる自然の信頼のなさにせよ、いずれも我々自身の制作する世界のものなのである。
自然が斉一であったり不斉一であったりする場合、各世界はそこに含まれる 有意な種 において互いに異なる。私が「自然な」と言わずに「有意な」と言うのは二つの理由による。
- 第一に、「自然な」は、生物学で言う種だけではなく音楽作品、心理学実験や機械の型式のような 人為的な種 をも含めるには不適切な用語である。
- 第二に、ここで問題にしている種はどちらかというと習慣的、伝統的なものであるか、新しい目的のために考案されたものであるのに、「自然な」という用語は、何か範疇的ないし心理学的な、絶対的優先を暗示するからである。[p.14-16]
「演奏」は「例化」だ、ということですかね。
※文献
- Nelson Goodman (1951) The Structure of Appearance (Boston Studies in the Philosophy and History of Science) / isbn:902770774X
- Nelson Goodman (1972) Problems and Projects