涜書:マイケル・アン ハリー(1997)「パノフスキーとカッシーラー」

ネットに落ちていたものを拾い読みする通勤時間。

著者が何者なのか知らないがこれは勉強になった。
カッシーラーの生涯と作品の簡単な解説がなされたあとで、『象徴形式としての遠近法』の検討がおこなわれている。
この本の第5章の訳:

Panofsky and the Foundations of Art History

Panofsky and the Foundations of Art History

  • PREFACE
  • HISTORICAL BACKGROUND
  • PANOFSKY AND WOLFFLIN
  • PANOFSKY AND RIEGL
  • CONTEMPORARY ISSUES
  • PANOFSKY AND CASSIRER
  • AN ICONOLOGICAL PERSPECTIVE
しかし論文を節立てせずに書く すべての著者に災いがありますように。

パノフスキー“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (ちくま学芸文庫)』からの引用。遠近法のアンビヴァレンスについて。

  • 遠近法が控えめに現れたとき、プラトンは、遠近法は「本当の大きさ」を歪め、主観的な外観と恣意性を現実と法則の場に持ち込んでいるという理由で、遠近法を非難したのに対し、
  • 超現代的な美術批評は、遠近法を、偏狭な そして偏狭になりつつある合理主義の産物として正反対の立場から非難している。

… 結局、遠近法に対する非難は、

  • 遠近法が「真に存在するもの」を「眼に見える物体の外観」として捉えていることに対する非難か、あるいは
  • 遠近法が形式についての自由でいわば霊的な直感を「眼に見える物体の外観」と結びつけていることに対する非難か

のどちらかであるが、ほとんど問題なのはそのどちらに強調を置くかであるにすぎない。

 それゆえ、遠近法の歴史は

  • 距離と客観性を促進させ実在を感知する知覚の勝利として、また
  • 距離を否定する知力を求めて戦った人間の勝利として、

等しく正当に理解されるであろう。つまり遠近法の歴史は

  • 外的世界を固定化し体系化するものとして、また
  • 自我領域の拡張として、

等しくよく理解されるであろう。従って遠近法の歴史は、このアンビヴァレントな方法を用いるべき意味についての問題を、芸術的思考のために絶えず提起しつづけなければならなかったのである。


論文末尾のカッシーラーからの引用:

精神の連続的な運動の中で、全視力は…熱視に変わり、全思索は結合に変わる。こうして、限りなく注意深い一瞥を世界に投げかけるとき、我々は_理_論_化_を行っているのである。…事実はすべてそれ自体_理_論_であるということを認識することこそ…最も重要なことである。

無茶言いやがって。

まぁカッシーラー主知主義的側面がよく伺われる箇所ではある。 しかし ひとが こんなことを言えるのは、かなり無駄に知的なムードに陥ったときだけであろう。



エッセイなので仕方ないのだろうが、「表情は一種の反射であり自己関係の構造をそなえる」という主張の もうちょっとちゃんとした解説を読みたい。



存在と時間』におけるカッシーラーへの当てこすり箇所についての解説。勉強になった。
ハイデガーは『象徴形式の哲学2』の書評を書いているらしいのだが、それ読んだことないなー。
ハイデガー曰く:

神話的な現存在の解釈を この存在者の存在体制の中心的な特性描写において設定するかわりに、カッシーラーは 神話的な対象意識の、つまりこの意識の思考および直観の形式の分析から始めるのである。


ついでにこれも。

ダヴォス討論―カッシーラー対ハイデガー

ダヴォス討論―カッシーラー対ハイデガー