概念の空間/実践の装置

うだうだやってる暇はねぇ(泣


「行為は如何にして装置のもとで可能になるか」という問いは、形式的分析とも馴染みのよい問いの立て方であり得る。
問題は逆の方。「装置は如何にして装置となるか。」

──もちろんこちらも、形式的分析と馴染みのよい問いであり得るが。つまり、「装置を可能にするコンテクスト(=メタ・コンテクスト)を問う」という行き方があるから。
ルーマン学説研究史を振り返れば、この症例はそこらじゅうにゴロゴロ落ちている。屍類類。
まぁ別にそういう人生研究があってくれても それはそれで困らない。そうじゃないやり方もある、ということさえ言えれば俺はいい。

「装置が如何にして行為を可能にするか」というのは「単に論理的に」問いうる。少なくともそう思われている(し、実際ある程度できるのだろう。それはたぶん、「指示連関を辿る」という道のことなのだろう)。
しかし逆はおそらく──それを「行為連鎖のもとで装置が如何にして成立するか」という仕方で問いをたてる限りにおいて──成り立たない。だってこちらは、行為を実際に見なければならないから。

クルターが「コンティンジェントかつアプリオリな構造」論文で、「社会学分析哲学の課題の違い」として述べていたのは、こういうことだったんじゃないだろうか。
言い換えると、「その装置は、実際に、実践の中で働いているものなのか?」ということに無頓着に仕事ができる限りで「分析的」な議論は可能である、というようなこと。(そして、そこに頓着しまくれば、エスノメソドロジーになる、というわけだ*。)
* という理解でいいですか?(>誰か)

...というような話を、例と直感に頼りながら テツガクっぽくなく書けたら俺の勝ち。というルールで。


というわけで これから生まれて初めて『存在と時間』をネタ本として読もうとしている俺がいる。