お買いもの:ハイデガー『カッセル講演』

オフラインの本屋に寄るとつい本を買ってしまい(かつ読んでしまうので)よくない。3月末までは控えよう(と決意)。
これは出ているのを知らなかった*。

ハイデッガー カッセル講演 (平凡社ライブラリー)

ハイデッガー カッセル講演 (平凡社ライブラリー)

存在と時間』執筆期直前(1925)の講演録。著作では 端折られている部分──特に、ディルタイとヨルクについてハイデガーがどう考えているか──が解説されていて、たいへん参考になる。
存在と時間』における議論の順序は、「解釈学の着想を生かす(=救う)ために、現象学的方法を援用しましょう」ということになっているわけだが、

で、これが ルーマンにおける「システム論-と-現象学」というペアとパラレルになっておるわけですが**、

この講義ではディルタイについての批判的検討がやや丁寧に行われているので、そのへん(どこを採ってどこを捨てるべきだと考えていたか)の消息がよくわかる。


ルーマンの「対象の分析を通して反省へ」という──『社会的システムたち』冒頭の──スローガンは、もとをただせば***ディルタイのもの。そのディルタイはといえば、ミルの言葉「道徳科学」を「精神科学」という語に翻訳して広めたひとなわけだけど、そこでいっしょに 解釈学が働くべき場所を──聖書文献学の枠組みから切り離して──「精神科学」のための反省理論へと移しかえる、という作業をやった。で、ディルタイの場合、「対象の分析を通して反省へ」(他者理解を通しての自己理解)というスローガンはこの文脈で登場するものであるわけなので、ルーマンのスローガンは この観点からも検討されるべきでありましょう。



* 「知っていた」らしい。 過去ログに言及があるのだが.... 手に取った記憶はないなぁ...。 ** 順序は逆だけど。ルーマンの場合は、「機能主義的方法を実行するために──は比較単位の指定が必要なので、そこで──、システム論を援用しましょう」、という順序。
*** テキスト上の根拠を用いて跡付けることはできない──つまり、この点についてのルーマン自身によるディルタイハイデガーへの明確な参照はどこにもない──けど、ここに継承関係があるのは ほとんど自明だろう。