再訪。
大森貴弘(2006) 「ニクラス・ルーマンの権力分立論 ──グローバル・コンテクストにおける応用可能性」 早稲田法学会誌 56 |
■主要検討論文
- (1973) Verfassungen im Kontext des Gesellschaftsystems
- (1990) Verfassung als evolutionäre Errungenschaft
p.79-80。ルーマンからの引用は 1990年の論文「進化の成果としての憲法」から。
近代文明には多くの成果があるが、18世紀末から近代国家に付与されている憲法ほど顕著に意図的なプランニングの結果であるものはほとんどない。こうした事情を知りながら 進化についてどのように言及することができるか。
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プランニングか、それとも進化か── この二者択一における決定は、まず第一に憲法というほう形式において実現しようとして諸々のコンセプトにおいて、いったい何が新しかったのかということを一度問うてみるなら、容易となる。
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一般的に憲法は、個人の基本権を保障するところに本質があると説かれることが多いが、それに対してルーマンは、個人権の保障が憲法の新しさではないとし、ポレーミッシュにコメントしている。権利章典は、現存するほ法状態を記述しているのであり、それを超えるものを導入してはいない。ゲラルト・シュトウルツ Gerard Stourzh によって提案された用語法では、次のように言うことさえできる。すんわち17世紀のイギリスで始まった個人権のファンダメンタル化の後に、それらの憲法化が続いたにすぎない、と。それゆえ憲法的な規律の内容における革新を、そうしたテーマの中に、たとえば国家権力の制限による個人権の保護の中に捜し求めても ほとんど先に進むことはできない。
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いったい何が新しい意味の必要性を生み出し説明することのできる社会的変化であるのか。なぜ・どのように 憲法constitution や根本法に関する周知の諸観念が変遷するのか を知ろうと欲するなら辞退は難しくなる。以下われわれは、この問いを追及してみたい。私のテーゼは、憲法 Verfassung という概念が その最初の概観にもかかわらず法と政治の分化に対応している、いや、さらに強く言えば、これら両方の機能システムの完全な分離および、それによって与えられた結合の必要性に対応している、というものである。
そこで構造的カップリングですよ。