大森貴弘(2007) 「再びニクラス・ルーマンの権力分立論 ──民主制における権力循環」 早稲田法学会誌 57 |
前期・中期・後期それぞれの議論をクリアにまとめてくれていて非常に勉強になったのだが。
「裁判は政治システムの中にあるのか、それとも法システムの中にあるのか」とか、「議会は政党政治の中にあるのか、それとも行政の中にあるのか」みたいな問題設定自体*に意味がないと思う私には非常に読むのがつらかった。(が、こうした問いが出てきてしまうのは 著者のせいではなくてルーマンのせいなのであるが。)
* 似たような議論に、「正義は法システムの中にあるのか、それとも外にあるのか」というようなのがある。意味ない。
※ご参考:『近代法システムと批判―ウェーバーからルーマンを超えて』
※ご参考:『近代法システムと批判―ウェーバーからルーマンを超えて』
問題関心
[...] このように、イギリス・フランス・ドイツのいずれの国においても社会構造がそのときどきの権力分立論に影響を与えていることが用意に看取されよう。それゆえ、現代的な権力分立のゼマンティクを模索していくためには、現代社会やその構造に関する理論を参照することが有益ではあるまいか。[p.2-3]
主要検討論文
初期:
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- (1969) Funktionen der Rechtsprechung im politischen System, → Politische Planung, 4.Aufl., 1994, S.46-52
- Rechtssoziologie,2 Bde., 1972 → 『法社会学』
- (1972) Politikbegriff und die "portisierung" der Verwaltung, → SA4 (1987)
- (1973) Politische Verfassungen im Kontext des Gesellschaftssystems, Der Staat 12
- メモ: 初期のルーマンは、「裁判」を政治システムに含まれるものだと考えていたよ。
中期:
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- (1981) Politische Theorie im Wohlfahrtsstaat → 『福祉国家における政治理論』
- (1981) Selbstlegitimation des Staats
- (1981) Machtkreislauf und Recht in Demokratien
p.12。ルーマン1981年の論文「権力循環」からの引用:
- 拘束的諸決定の産出に従事し(議会・政府・行政官僚)・かつ・私がここで簡潔に(広義の)行政Verwaltung と呼びたい部分システムと並んで、
- われわれは(狭義の)政治 のための部分システム、すなわちテーマの準備および人物の選択のための、コンセンサスのチャンスをテストするための、権力の構築のための部分システムを見出す。この部分システムは、とりわけ、政府の地位を占めていないときにも存在しうるほどに独立している政党という組織に自らの存在を負っている。
- 最後的にはそれ以外に、誰もが一定の役割によって政治システムへと組み込まれているのである──すなわち、拘束的諸決定を受け入れなければならず、政治システムにおいてコミュニケーションすることができ、そして何よりもその一票が政治選挙において数えられる限りにおいて──。われわれはこの領域を 公衆 と呼ぶ。
p.13。権力の「公式循環」。ルーマン上掲論文からの引用:
- 公衆が政治における指導的人物と政治プログラムを選択し、
- 政治家が拘束的な決定のための前提を濃縮し、
- 行政が決定するとともに公衆を──自分たちでふたたび選挙する公衆を──拘束する。
p.14、地の文。権力の「非公式循環」。
- 行政がさまざまな立案を行い
- 政治は選挙において選ばれるべき人物や政治プログラムを事前に練り上げ、
- 公衆は自発的な意志によって行政と協働し、一定の影響力を行使する。
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- メモ: このあたりから「裁判」(および「立法」)の位置が微妙になってくるよ。
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p.16-。ルーマン先生、1982年の東大での講演にて曰く:
- 政治システムは、法システムに決定前提(法律)を提供し、その返報として、政治的決定の実行のための合法性と特殊性を受け取る。
- 法システムは、政治システムに決定の強制のための諸前提を提供し(合法的決定のみが実力によって貫徹されうる)、その返報として、政治による執行への保証、すなわち法の貫徹に際しての警察もしくは軍隊の助けをすら受け取る。
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- メモ: でもこの時期には、「立法」は、あくまで「広義の行政(=立法+狭義の行政)」の中に位置づけられていたよ。[p.18](←『意味の歴史社会学―ルーマンの近代ゼマンティク論 (SEKAISHISO SEMINAR)』に対する批判)
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文献
- (1993) 日比野勤「国家における自己正当化と市民宗教」樋口陽一・高橋和之『現代立憲主義の展開 (下)』
- (2002) 毛利 透『民主政の規範理論―憲法パトリオティズムは可能か』
- (1991) 楜澤能生「オートポイエシスと法理論──西ドイツにおける「ポスト福祉国家の法理論」の一潮流」早稲田法学66巻2号.
http://hdl.handle.net/2065/2176
ところで表紙の違う版がでてたのね。
- 作者: Niklas Luhmann
- 出版社/メーカー: VS Verlag fuer Sozialwissenschaften
- 発売日: 2008/02/14
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