ルーマン『エコロジーのコミュニケーション』

続き。

Oekologische Kommunikation: Kann die moderne Gesellschaft sich auf oekologische Gefaehrdungen einstellen? (Neue Bibliothek der Sozialwissenschaften)

Oekologische Kommunikation: Kann die moderne Gesellschaft sich auf oekologische Gefaehrdungen einstellen? (Neue Bibliothek der Sozialwissenschaften)

ISBN:3531117750ISBN:3531161458ISBN:3531517759
Ecological Communication

Ecological Communication

ISBN:0745605001ISBN:0226496511
エコロジーのコミュニケーション―現代社会はエコロジーの危機に対応できるか?

エコロジーのコミュニケーション―現代社会はエコロジーの危機に対応できるか?

ISBN:4787792121糞訳注意
翻訳があるものの書誌を載せないのは何故ですか。
あと、文献一覧も索引もつけない本を作るすべての編集者と出版社に災いがありますように。
  • 1 社会学的禁欲
  • 2 原因と責任?
  • 3 複合性と進化
  • 4 共鳴
  • 5 観察に関する観察
  • 6 社会操作のコミュニケーション
  • 7 エコロジーの知識と社会のコミュニケーション
  • 8 バイナリーコード
  • 9 コード、規範、プログラム
  • 10 経済
  • 11 法
  • 12 学問
  • 13 政治
  • 14 宗教
  • 15 教育
  • 16 機能的分化
  • 17 制限と強化―ごくわずかな共鳴ときわめて強い共鳴
  • 18 代理と自己観察―「新しい社会運動」
  • 19 不安、モラル、理論
  • 20 エコロジー的コミュニケーションの合理性について
  • 21 環境倫理

本書の主題:「リスクの問題は、「倫理的責任感の欠如」に結びつける以外の、どんな論じ方があるだろうか」

第1章

15頁

[歴史上ずっと、人間と社会に関する考察は──18世紀における風土論や重農学派などいくつかを除けば──社会に対して完全に内向きのものであった。] このことがもっともはっきりと見て取れるのは、おそらくダーウィンの議論が社会科学に取り入れられた際の接種の仕方であろう。社会システムの環境こそが、何が社会として発展しうるのかを選択的に決定するという考えを受け入れる代わりに、イデオロギー化した社会ダーウィニズムが誕生してしまったのである。それは、個人、企業、民族などさまざまなレベルでの生存競争において勝利することを権利として認めるものであったが、数年後には新しい社会的モラルという沼地にはまり込んでしまい 身動きが取れなくなってしまった。そして今日に至るまで、社会科学における進化論は、その立ち往生状態から完全に脱することができずにいるのである6

20頁。

periechon、continens、ambiens、ambiente、medium といった言葉の分野での理念史的研究によって示すことができるのは、わたしたちが今日 環境 と呼ぶものが、ギリシャ的思考においても中世の思考においても、内に含むすべてのものに相応の場所と境界を示す soma periechon ──目に見える生きたコスモスというわけではないにせよ──とみなされていたことである18。考えられていたのは、小さな身体が大きな身体に包摂され保持されているという状態であり、境界づけは、可能性の剥奪あるいは自由の制限としてではなく、形を付与し、支え、保護することとみなされていた。

「可能性の剥奪あるいは自由の制限」という表現でもって考えられているのは「システム構造」のことであろう。

注18は、

第2章

  • p.279 原因者とは、換言すれば、つかまえることのできる人のことである。 ……ひどい。

第7章

  • p.67 この世のものではない事柄のほうが この世の事柄よりも容易に、しかもいわばより実用的に組織化できるからである。

第10章 「経済」

  • p.99 貨幣による所有という形式が一般化する以前は、所有──とりわけ土地の所有──は、十分に分化・自立化することができなかった。たとえば、土地の所有は、ほとんど必然的に政治的権力(封建制)の基盤であり続けた。
  • p.101 ニーズは生まれ、注意を引くが、それ自体はシステムにとって環境要因として与えられるものである。システムは、あくまでもシステム固有の作動を統制することで、つまり支払いをプログラム化することで、存立している。そして、それは価格を通じて行われるのである。
  • p.101 「正しいjust 価格」の教説の放棄を巡る、経済・法・政治の分化。
  • p.104 近代の経済を「資本主義的」と形容できるのは、それが支払いを、支払い者の支払い能力の回復と結びつける場合、とりわけ どれだけ収益が期待できるかを考慮しながら投資の決定を行う場合であり、その場合のみである。
  • p.105 したがって、家計も 経済の資本主義的セクターからは外れているのである。

〈数量決定/分配決定〉を巡る希少性のパラドクスという論点が頻出しているが、これの最初の説明はどこにあるのだ。

  • p.113 法との類比。〈法制定/法適用〉の分離戦略。
  • いくつかの戦略。p.109〜:[1] 環境関連市場の政治的統制。[2] 外部市場の内部化。
  • p.114 諸問題は費用の問題へと集約されるのだから、「非経済的な」費用という言い方は無意味である。
  • p.131 「リスクの評価とその許容度を中央の機関が一元的に調査し確定することは避けられないが、それら評価と許容度は合意に依拠するものとみなすことはできず、しかも調査と確定自体がリスクを引き受ける用意を自動的に低下させるということが想定されねばならない。」
  • p.134 排出権問題についてのコメント。

第13章「政治」

  • p.311 18世紀初頭までは、「政治的」という言葉は広い意味で使われていた」と述べてトマジウスとかの文献を挙げた最後にハバーマスの文献潜ませるのってどうなの。「ハバーマスの著作では、政治とは思慮深い公的な振る舞いというほどの意味である。」(!)

第14章「宗教」

  • p.188 「宗教の場合に神学的文献がほとんど頼りにならないのと同様、教育システムの場合も教育学的な文献を当てにすることはできない。いずれも、もっぱらプログラムに関わることばかりを論じているからである。」

第16章「機能的分化」

p.206-208。「価値」の要請と意義
このあたりはせめてもう少し敷衍していただきたいところ。

 機能分化がもたらすもう一つの変化は、あらゆる機能システムの 構造の次元 において、別様でありうるという性質が際立つようになることである。

自然法から実定法への移行、政府の民主的な交代、理論の妥当性の仮説的性格、配偶者を自由に選べること、そして何と言っても、「市場の決定」(誰が・あるいは何を 決定するにせよ)とみなされ、ますます批判にさらされているいっさいの事柄を思い浮かべてみていただきたい。

その帰結は、それまで自然とみなされていた事柄の多くが、決定されたこととして描かれるようになり、根拠づけを求められるようになることである。かくして新たな「inviolate level」(ホフスタッター)──理性を保証し啓蒙の批判に耐えうるアプリオリ──に対するニーズが発生する。あるいは、そうしたものが得られなければ 最終的には「価値」に対するニーズが発生する6。価値は義務ではないにもかかわらずあたかも義務のようにみなされるという独特な性質をもっているが、そうした価値の性質は、

  • 別様でもありうることに対して人びとが居心地の悪さを感じていることと、
  • 構造の批判や統計分析を通じてますます多くの自体が決定によってもたらされたものとして強調されるようになって来た事実と、

明らかに相関関係がある。それどころか、誰かが決定したということを確認できない場合でさえ(たとえば、自己による志望者数とか、失業率の上昇など)、問題のある状態を是正するために、決定が要請されるのである。そして、 決定を要請するということは、暗黙のうちにであれ明示的にであれ、価値を拠り所にするということである。このように、 構造が別様でありうることは、価値の秩序を生み出す。しかも、その結果として具体的にどのような影響を生み出すことになるのかということを いっさい考慮することなく、したがって価値秩序が想定するような状態が本当に達成できるのかということをいっさい考慮することなく、価値秩序は生まれるのである。

6 価値概念の意味論的経歴は ほんのわずかしか明らかになっていない(とりわけ19世紀半ば以前はほとんど明らかになっていない)が、価値概念が注目されるようになったきっかけの一つがこれだったかもしれない。
もちろん 19世紀半ばになって初めて価値概念が経済学から道徳、文学、美学、哲学へと広まって行ったなどというのは正しくない(たとえば Abbé Morellet, Prospectus D'Un Nouveau Dictionnaire De Commerce, Paris 1769 [...] は 逆に 経済的利益に限定して使われていたことを指摘している。しかし18世紀全体を通して非常に一般的な意味で使われていたことも事実である。)。しかし同様に明らかなのは、
価値概念は、ここ100年で初めて、意味を最終的に補償するものとして、したがって反駁しにくいものとして、用いられるようになったということである。

 エコロジーのコミュニケーションは、このような価値のインフレーションを一段と昂進させるであろうことに気づく人もいるだろう。というのも、環境の変化の原因は社会自身にあるとみなさざるをえないとすれば、その原因を、修正すべきであった何らかの決定に求めるというのは、自然な流れだからである。排出ガス中の有害物質の割合についての決定とか、さまざまな資源の全消費量についての決定とか、どのような影響が出るのかいまだにわからない新種のテクノロジーについての決定、などなどである。そのような原因の求め方は、単純化する因果帰属に、つまり明瞭にすると同時に隠蔽する因果帰属にもとづいているということは、すでに第三章で指摘しておいた。しかし、そう言ったところで、そのような原因の求め方がおこなわれ、コミュニケートされるという事態が妨げられるわけではない。そしてそうした事態は、たとえ他の効果はもたらさなくとも、少なくとも価値を浮上させるという効果はもたらすのである7

7 これは何もしなくても怒るが、やがて盛んに要請されるようになり、それどころか問題解決の前提条件とさえみなされるようになる。[...]