お買いもの:小手川正二郎(2015)『甦るレヴィナス』

現象学ブックフェアにて購入。


第1部 レヴィナス現象学

  • 第1章 『全体性と無限』の現象学的方法
  • 第2章 レヴィナスの思想は「他者」論か──『全体性と無限』第一部の役割」
  • 第3章 ブーバーとの対話

第2部 ハイデガーとの対決──主体・存在・真理

  • 第4章 主体性の擁護──ハイデガーによる「主体」批判の後で
  • 第5章 存在と真理──存在だけしかないことがなぜ「悪い」のか

第3部 デリダへの応答──『全体性と無限』の理性論

  • 第6章 他人(autrui)と〈他者〉(l'Autre)──〈他人〉を「理解」すること
  • 第7章 「自我への暴力」と「他者への暴力」──レヴィナスは「他者への暴力」を批判したのか
  • 第8章 「第三者は他人の眼を通じて私を見つめる」──「第三者」とは誰か

第4部 「現れざるものの現象学」とは別の仕方で

  • 第9章 〈他人〉との対話と〈他者〉への愛
  • 第10章 「転回」ではなく「深化」
  • 終 章 「レヴィナス倫理学」の可能性

語「志向性」の登場箇所(24回):

  • 1-1「レヴイナスの現象学理解をめぐる問題」
    • ジャニコーによる批判。現象学・志向性分析の乗り越えについて:38, 39
    • 「表象の有意にない志向性」について。マリオンによる批判。:40
    • ブノワ:41
      「「直観が意味志向から満ち溢れる」というこのような考え方は、意味作用直観作用 という根本的に異なる作用を、共通平面上で考えてしまっている点で致命的な欠陥を抱えている。ブノワによれば、フッサールにおいて、直観が問題となるのは認識の正しさ(特定の意味作用に即して、対象が与えられているか否か)が問題化されるときであり、意味作用と直観は、端的に異なる領域に属す(認識の場面で、あくまで「部分的に」合致したり、合致しなかったりする)と考えられている。これに対してマリオンは、意味作用と直観の「隔たり」を 「与えられること」の程度の差異 に縮減してしまう。」
    • 42, 43
      「レヴイナスは確かに、志向作用と志向対象の相関を一般化することが特定のあり方(享受や他人との関係)の固有性を損なう恐れがあると考え、最初期の著作以来、フッサールにおける理論や客観化作用の優位を問題視し続け、『全体性と無限』では「志向性の意味と同様に、真理の本来の意味と志向作用と志向対象という構造を変更する」(TI328)と述べている。しかし、それは、マリオンのように「より直接的に与えられるもの」に向かうためではなく、対話や愛といった他人との関係や享受、所有、労働等の多様な「人間的な」あり方を、志向性の枠組みとは異なる視点から、あるがままに記述しようとしたからだ。この点で、ジャニコーや一部のレヴィナス擁護者のように、レヴィナスが「客観化するまなざしの中立性から手を切っている」(TI81)と考えるのは間違っている。彼は、自らの分析が客観的な吟味に耐えうると思っているからだ。」
  • 4-2「主体の「もの」性」
    • 95 「思惟するという働きは、始点や観点を欠いた非人称的な働き(「〜という考えがある) としてではなく、一人称単数形で生じる(「私は〜と考える」という形で「具体化」される)。それは、思惟が宙に浮いた働きではなく、特定の場所を占める「もの」に支えられているからだ。
       このように考えることは、思惟を脳等の身体の特定部位に帰すことを意味せず、一人称単数形で表される体験が、外から観察される身体(「対象としての身体」)とは異なる身体のあり方に依拠しているという点に光をあてることを意味する。この点は、われわれの活動が 身体的志向性 に支えられている(例えば、事物の知覚は、焦点を合わせる眼球運動や適切な距離をとる身体運動に支えられている)というメルロ=ポンテイの考えを想起させるかもしれない。ところが、レヴィナスが強調するのは、われわれの活動可能性と一体となり、(物を見るときに、眼球運動や姿勢の変化を意識することがないように)活動に溶け込んでいる身体性ではなく、むしろ活動の障碍(不自由さ)や 残余(疲れ・だるさ)として体験されるような身体性である。」
    • 98 「自己身体の活動性だけでなく、様々な影響を被ったり支障をきたしたりする重荷ないし障碍としての性格(「従わされる身体」)を強調するこうした見方は、社会的規範のもとで抑制されがちな女性の身体運動や、障碍を抱えたり、老いによって衰えたりした身体のあり方を現象学的に分析することに寄与しうる。例えばヤングは、女性の身体性の特徴(例えば、「女の子投げ」と言われる身体の使い方)メルロー=ポンテイの身体論との対比のもと、次のように分析している17
       (1) 健康かつ男性的な身体が事物や環境において自らの可能性を展開するという、「世界への超越」から特徴づけられるのに対して、女性的な身体は事物や環境への運動にすべて身を投じるわけではなく、部分的に身体の内側(事物性)にとどまるという「曖味な超越」によって特徴づけられる18
      (2) 女性的な身体は、社会的。文化的規範のもとで、「私は〜できる」という「運動志向性」を全面的に展開することなく、自らの運動可能性を抑制してしまう傾向がある19。
      (3) 男性的な身体が、自らの活動領域をなす環境との一体性のもとにあるのに対して、女性的身体は、身体の各部分の一体性。世界との一体性がしばしば欠如している。
      こうした分析は、身体を世界との係わりにおける透明な媒体とみなすことも、社会的規範によって統制される構築物とみなすこともなく、様々な規範や力関係との交渉の内で主体性が形づくられる場として身体を捉える点で豊かな可能性を秘めている。レヴイナスの身体論は、身体の「もの」性や「ここ」という性格を、健康的な身体の欠損状態としてではなく、男性の身体も含め、あらゆる身体に内在する性格として考えることを可能にするがゆえに、こうした分析の思想的基盤となりうるはずだ。」
    • 注09 286: メルロ=ポンテイにおける身体の運動志向性について
    • 注19 288: アイリス・マリオン・ヤングからの引用
      「しかし女性的存在はしばしば、明快かつ自信にあふれた「私はできる」における環境への振舞いを通じて、様々な可能性との身体的関係に入ろうとしないことがある。例えば、女性はしばしば、比較的容易になされうる課題を設定する傾向がある〔……〕。典型的には、女性的身体は、自らの真の能力を、物理的大きさや強さの可能性という点でも、発揮しうる真の技術や〔各部分の〕連動という点でも、充分に活用しない。女性的身体のあり方とは、抑制された志向性であり、それは「私はできる」によって企図された目的へと手を伸ばすと同時に、自らに課す「私はできない」において、この目的への身体的な献身を完全になすことを抑制してしまうのだ。」
      On Female Body Experience: Throwing Like a Girl and Other Essays (Studies in Feminist Philosophy).
  • 4-4「女性的なもの――他人との「親しみ」と世界への「馴染み」」
    • 111
  • 9-2「エロスの現象学への諸批判――従来のレヴィナス擁護の問題性」