涜書:村上靖彦『自閉症の現象学』

合評会は行けなさそうですが、いちおう読んでみる。いけそう。

  • 日時:2008年10月4日(土)午後1時から午後5時まで
  • 場所:東京大学文学部法文1号館(2階)215教室 [map]
  • コメンテーター:田口 茂(山形大学)・神尾 陽子(国立精神・神経センター精神保健研究所)
  • 司会:内海 健(帝京大学)・鈴木 泉(東京大学
http://socinfo.g.hatena.ne.jp/keyword/2008%2d10%2d04

自閉症の現象学

自閉症の現象学

とりあえず一読。
やや河本臭のする文体になじむまでがなかなかキツかった。もう数周すれば慣れるのだろうがそんなもの慣れたくはない
レヴィナスを非倫理的に読む姿勢には おおいに好感。とりあえず、勝手に想像していた*(!)よりは遥かに面白かった

自閉症現象学的分析」と「現象学についての反省的検討」の統合度合いが高い
加えて、自閉症についてこちらの知識がかけているので、私にとってニュース性が高い

ので、あと何度か読んでみることにする。

* 「実際に「作業哲学」をやってみました!」というのには 残念ながらハズれが多い、という(失礼な)偏見が(私の側に)あるのでしょう。

目次

  • はじめに
  • 第1章 模様の世界から視線触発へ [対人関係]
  • 第2章 視線はなぜ怖いのか──感情の図式化と間身体性 [感情表現]
  • 補 論 他者の現象学の再構想 [視線触発についての補論]
  • 第3章 流れない時間──不測の事態と現実、視線の強度 [時間]
  • 第4章 平らな時間──奥行きの起源について [空間]
  • 第5章 「ミニカー並べ」と志向の構造──形の次元と知覚的空想 [想像力]
  • 第6章 言語を使わずに思考する──知覚的空想とリズム [言語]
  • 第7章 クレーン現象は誰の行為か?──内面とカテゴリー的人格 [自我]
  • 第8章 自閉症児の脆弱性と経験の限界値 [「脆弱性」という観点から7章までの論点を振り返る]
  • おわりに──自閉症児の療育のために


■3つのキーワード[p.vi-vii]:
「視線触発」と「図式化」は、社会システムの可能性条件に、「現実」のほうは「複雑性」のほうに、それぞれ相当しそうですな。

  • 視線触発: 視線や呼び声、触れられることなどで働く、相手からこちらへを一直線に向かってくるベクトルの直線的な体験である。対人関係を他者の身体像の把握から出発して考えたフッサールが見逃した現象であり、かつメルロ=ポンティやワロンが既述しようとしたような共存在・共感覚とも質の異なる現象である。
  • 図式化: 様々な異質の現象が浸透しあい、高次の秩序を形成する運動である。知覚・空想・運動感覚・情動性・言語といった相互に異質な次元が浸透して、感情表現となる。逆に、経験的には表情という図式化のなかに、もとの運動感覚や情動性は感じ取られる。この作用が生じる場、そして思考が生起する場が、[本書の]あと[のところ]で「形の次元」として確定されることになる。
  • 現実: 認識や了解、対処ができない得体の知れない現象の切迫のことである。とりわけ非感性的な不測の事態が問題となる。経験構造の秩序をはみ出す現象に、人間は常に曝されている。フッサール現象学はこのような「穴」を考慮しなかった。

著者によると、メルロ=ポンティやワロンが論じたのは──心理学者の謂う──「共鳴動作」であり、これは「図式化」──感情と運動感覚の共有──のほうに関係するものだとのこと[p.39]。


「視線触発」の「視線」は「呼びかけ」の意。曰く:

 目があってドキっとする経験と、ある物体をみて身体であると認識する経験とは質が全くことなる。[...] 視線の経験は眼球の知覚とは異なる。眼球を注視した場合には目が合うことは無いし、顔の形態を注視した場合には表情が捉えられなくなる。また眼球を知覚しなくても、物音や気配で視線を感じることもある。[...] 目が合うこと、つまり視線や表情を体験することは、知覚とは異なる次元で成立している体験なのである。
 [...] 本書では、この視線やスキンシップ、呼びかけが惹起する触発を「視線触発」と名付ける(スキンシップや超えかけも含むので視線に限られるわけではないが、便宜上視線で代表させてこのように名付ける)。[...] 視線触発は、

  1. こちらに向かってくる視線や呼び声・接触のベクトルの直接的な体験であり、
  2. 感性的体験に浸透するが、それ自体は感性とは異なる次元で、
  3. 自我や他者の存在が認識されるに先立って作動している。[p.2-3]

著者の謂う「視線触発」には、テキストを読むことによって体験される「呼びかけ」まで含まれている:

存在の彼方

 私たちは夢や空想の中でも誰かに呼びかけられ見つめられる。手紙を読む時には手紙の書き手から語りかけられる。このとき視線触発が作動している。それならば視線触発は、知覚と空想の区別や相手が実在するかしないかに関わらない。つまり直観領域の区別や存在論的な区別とは関係なく作動する。このとき(感性的次元に浸透しているがそこには還元できない)なんらかの固有の次元において私と相手は連絡をとっている。後期レヴィナスは、この存在論から自由な次元を「存在の彼方」と呼んだ。目が合う時に生成する新たな次元とは、相手と興隆するこの次元であり、会話にしろ書き言葉や身振りにしろ、コミュニケーションのあらゆる様態はこの次元の作動を含んでいる。つまり

相手の感情を読み取れるか読めないか、自分の感情を表現できるか出来ないかに関わらず、

相手と関わってしまっている・相手が向かってくるという体験が成立し、この体験固有の次元がある。 [p.41]


著者(〜レヴィナス)の語用につきあったうえで「社会システム」について語るなら、「社会システムは存在の彼方にある」(笑)と述べることになりましょう。しかしこういう術語方針の採用は、我々が「存る」という語を用いるやり方の多様性・複雑性を検討しないで済ませるときにのみ可能な

そうであるがゆえに、この方針が相対化しようとしているもの──つまり「存在論」──と共犯関係を取り結ぶことなしには不可能な

ものではないですかね。

これは「亡霊」(笑)とかいった表現についても言えることだけど。