- 作者:山之内 靖
- 発売日: 2015/01/07
- メディア: 文庫
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1997年刊行の論文集『総力戦と現代化 (パルマケイア叢書)』への序文。(版元)
* 「このような」が正確には何を指すのかは判明ではない。「階級社会からシステム社会への移行」は本文にある表現で、注6はここに付されたものだが、この注はかなり長大。「この観点/このような観点」という表現は三段落からなる最初の段落と最後の段落で使われており、同じものを指すと読むのが普通の読み方だろう。そして最初の段落の「この観点」が「階級社会からシステム社会への移行」を指すのは間違いない。上掲「山之内がこのような観点を構成するにあたってもっとも大きな示唆を受けたのは、カール・レーヴィットの諸著作であり、」は後者からのもの。なので、読解の普通のお約束からすれば、まずは
山之内が〈階級社会からシステム社会への移行〉なる観点を構成するにあたってもっとも大きな示唆を受けたのは、カール・レーヴィットの諸著作であり、と読むべきところだろう。けど、そうだとしたら議論が雑すぎるのでにわかには支持しがたい。
この箇所はこの論文集の読解にとって重要であるように思われるので、少し長めに引用しておく。まず本文[65-66]:
… 総力戦体制は、社会的紛争や社会的排除(=近代身分制)の諸モーメントを除去し、社会総体を戦争遂行のための機能性という一点に向けて合理化するものであった。社会に内在する紛争や葛藤を強く意識しつつ、こうした対立・排除の諸モーメントを社会制度内に積極的に組み入れること、そうした改革によってこれらのモーメントを社会的統合に貢献する機能の担い手へと位置づけなおすこと、このことを総力戦体制は必須要件としたのである。こう考えてみれば、総力戦体制が機能主義的に組織されたシステム社会の成立において重要な経過点をなしたことは、すでに疑いのないところだといってよい。…/以上の見通しに立脚することにより、この序論では、総力戦体制によって遂行された編成替えの性格を「階級社会からシステム社会への移行」という観点に立ってとらえてみることにしよう6。この私の仮説が有効であるかどうかは、今後の歴史研究に待つ他ないが、ここではさしあたり、現代におけるシステム論的社会理論の起点をなしたタルコット・パーソンズの所説を取り上げ、システム社会にかんする彼の構想がどれほど総力戦体制下に進行した編成替えと照応しているかを考察することとしよう。
ここで「機能」と言われているのは「戦争遂行」のこと。そしてこの箇所に付いた注6[121-122]:
- この観点はあくまで[論文集『総力戦と現代化』の]編者としての私の個人的見解であ[り、著者間の相違のうちもっとも重大なのは〈近代化/現代化〉を明確に区別するか否かにある]。
- 「現代化」として山之内が念頭においているのは、古典的近代が階級社会としての性格を強く帯びた資本主義社会であったのにたいし、現代社会はシステム社会としての性格を強く帯びた資本主義社会へと転換したという事実である。総力戦の時代について、これを「階級社会からシステム社会への移行’ととらえる場合、山之内は次の諸事実を指標としている。システム社会化により、
- (A) 階級対立は国家を仲介とする労使交渉の場に移され、社会的に制度化された。また国家の介入を通して社会的上昇ルートが設定され…、階級の壁を超える社会的流動性が制度化された。
- (B) … ヘーゲルは近代社会を構成する家族・市民社会・国家のそれぞれにたいし、他の二者には還元できない特別な社会的位置を与えていた。だが総力戦時代を経過することにより、国家と市民社会、家族と市民社会の間の境界線は曖昧化し、相互浸透が進行した。国家と市民社会の相互浸透はいわゆる福祉国家をもたらし、家族と市民社会の相互浸透は私生活の公共化あるいは公共空間の私的空間化をもたらした。
- (C) 以上の二過程を経過することによって、現代社会は古典的近代とは異なる段階に到達した。ここでは、階級対立その他の社会的紛争は歴史的変動をもたらす主要な動因ではなくなり、絶えず社会的にルール化され、制度化されてゆく。しかしそれに替わって新たな問題群が登場する。社会システムによっては容易に吸収されることのない他のシステム領域、すなわち身体システムおよび生命系システム(自然環境システム)が、社会システムとの間にきわめて深刻な摩擦を起こすからである。
- 山之内がこのような観点を構成するにあたって最も大きな示唆を受けたのは、カール・レーヴィットの諸著作であり、なかでも…『学問とわれわれの時代の運命』…であった。