猪狩誠也(2018)「日本の経営ジャーナリズム:現代の企業社会に何を残したか」

  • 猪狩誠也(2018)「日本の経営ジャーナリズム:現代の企業社会に何を残したか」 広報研究22、日本広報学会 CiNii

  • 1. はじめに
    • 経営ジャーナリズムという言葉
    • 壱岐晃才『証言・戦後日本の経営革新』
  • 2. 経営革新の時代へ

  • 3. 戦前からの連続と非連続
    • 「1940 年体制」に始まる
    • 民間企業における能率の追求
  • 4. アメリカの援助そして追随
    • 戦後日本の経済復興を支えた人びと
    • 新しい経営理念の創造へ――経済同友会の誕生
    • 管理と運動
  • 5. 経営ジャーナリズムの終焉
    • 経営学」の破算
    • 「日本的経営」の再評価
    • 歴史そして生きている人間への回帰
    • 成長のマイナス効果
  • 参考文献

1. はじめに

  • 「私がここで取り上げたいのは、第二次大戦後の日本経済の復興期から最盛期に至るまで、1955(昭和30)年頃から1960(昭和35)年頃に創刊され、20世紀終わり頃にはかなり影の薄くなってしまった経営雑誌・書籍を中心とするメディアである。それは、当時、再生の途にあった日本企業のビジネスマンたちを育てたアメリカの最先端の経営手法という栄養源だったと思うからである。」
  • 壱岐晃才(1981)『証言 戦後日本の経営革新:高度成長を支えた人々』 ISBN:B000J7T63G
  • 坂本藤良(1958)『経営学入門:現代企業はどんな技能を必要とするか』 光文社カッパ・ブックス ISBN:B000JAVG2M https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3009991

2. 経営革新の時代へ

  • 畠山芳雄(1958)『会社はなぜつぶれるか』白桃書房 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3014935
    畠山は日本能率協会コンサルタント
  • 146 「当時を思い起こすと、アメリカのこうしたソフトの売込みも盛んであって、アメリカ大使館文化センターの鷺村さんという方が月に一度は『米書だより』というパンフを持って、出版部門を訪ねてきては、ダイヤモンド社に向いた経営書を紹介していった。その当時は版権料も前払金もきわめて安かったのは、ややオーバーにいえばアメリカの国家戦略ではなかったか?」
  • 147にビジネス誌創刊年表
  • 148 「また私がダイヤモンド社入社の翌年、1958年に担当したヴァンス・パッカード著・林周二訳『かくれた説得者』、さらに3年後に出した同じ著者の南博・石川弘義訳『浪費をつくり出す人々』も、アメリカ企業が消費者心理を操縦する戦略を批判したものだったが、日本では新しいマーケティング戦略として受け取られマーケティング担当者だけでなく広くビジネスマンの間で話題になったものであった。今、手元にあるその2冊の奥付を見ると昭和33年6月初版『かくれた説得者』が40年3月で17版、36年10月初版『浪費をつくり出す人々』は39年11月で13版となっている。おそらく両方とも10万部以上は売れたと思う。パッカードのこの2冊については、日本のマーケティングにかなり大きな影響を及ぼしたと思うので、のちにもう一度取り上げることにしたい。」
  • 148 1960年代のベストセラーはビジネスマン向けの本が多い
    • 58年 坂本藤良『経営学入門』
    • 62年 星野芳郎『マイ・カー』
    • 63年 占部都美『危ない会社』
    • 65年 大松博文『おれについてこい』、後藤弘『バランスシート』
    • 67年 竹村健一マクルーハンの世界』
    • 68年 畠山芳雄『こんな幹部は辞表を書け』
    • 69年 梅棹忠夫『知的生産の技術』、デボノ『水平思考の世界』、ドラッカー『断絶の時代』
  • 林周二
  • ヴァンス・パッカード『浪費をつくり出す人々』 南博・石川弘義 訳、ダイヤモンド社 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3026979
    「戦略十訓」の元ネタ。
  • 電通「モチベーション・リサーチ研究所」
  • ドラッカーの最初の邦訳は、1956年。 『オートメーションと新しい社会』 ダイヤモンド社 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3020579
    同じ1956年には“The Practice of Management”(日本版書名『現代の経営』)も自由国民社から出版された。クレジットは野田一夫監訳・現代経営研究会訳。
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3020577
    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3020578
    • 野田一夫・現代経営研究会とは誰ですか問題。
      • 152「監訳の野田一夫は当時、立教大学教授、東大文学部社会学科で産業社会学を専攻、のちに多摩大学学長、宮城県立大学学長などを歴任、90歳を越す今でも矍鑠としておられる。「叔父の野田信夫は戦前、戦後の日本経営史・経営学史には外せない人物で、戦前は三菱重工業調査役、傍ら東大工学部でも講師も兼ね、著書の『工業経済新論』、『企業の近代的経営』などはかなり版を重ねている。戦前は重要産業協議会の、戦後は経済同友会のブレーン、さらに日本生産性本部研究所長、成蹊大学学長などとして終始、日本の実践的経営学の“祖”であり、リーダー的存在であった。
         現代経営研究会とは誰なのか、どういうグループなのかは明らかにされてこなかったが、野田一夫のもとに集まってきた、多くは一流会社勤めで、フルブライト留学制度でアメリカの大学への留学経験を持つ若いビジネスマンたちであった。」
  • 152「敗戦後の日本を成長に導いた要因の一つとしてさまざまなアメリカの援助があり、その背後にはソ連との冷たい戦争が存在、日本をパートナーとして育成しようという意図があったといわれる。「フルブライト留学生制度」、日本生産性本部の組織したアメリカ経営視察団はその代表的なものであった。」
    • ・「フルブライト交流プログラム」は1946年、フルブライト上院議員によって提案されたもの。
      ・日本人学生がこれによって米国留学へ行き始めたのは1952(昭和27)年
      ・1967年の終結までの15年間で、年平均250人以上の日本人が留学した。
      ・米国から日本への留学も年50人くらいいた。
      ・同窓会の人数は6千人くらい。
      フルブライト留学生から日本の大学学長になった者は53人(それ以前のガリオア資金による留学生も加えると72人)に及ぶ。
  • 152「もうひとつ、日本の産業界につながるアメリカの援助は、日本生産性本部によるアメリカ産業視察団である。」
    ・1955年3月 生産性本部創立
    ・1955年5月 鉄鋼業訪米視察団:経団連会長・日本生産性本部初代会長・石坂泰三を団長とする第一次トップ・マネジメント視察団
    ・1955年以後10年間で660チーム、人数にして6千800名が訪米した。
    • アメリカの経営理論・技術を学び、それを社内(外)に認めさせることは、当時の意欲あるビジネスマンにとってひとつの重要な人生設計になっていったのである。スペシャリスト、ゼネラリストという言葉が現れたのもこの頃だったし、社長室・企画室など全社の経営戦略を考えるゼネラル・スタッフが大企業に誕生したのも60年代の中ごろだった。」
  • 日本生産性本部主催「軽井沢トップセミナー」。1958(昭和33)年開始。
    • 153「たまたま手元にあった1965年の第8回トップセミナーのプログラムを見ると、
      タイトルは「危機に対面する経営者」、
      講師は中山素平・川俣克二・松下幸之助・稲山嘉寛・岩佐凱実・野田一夫……。
      参加費6万円、
      場所は軽井沢晴山ホテル。… 初期は経団連の中枢が軽井沢に集結した感があった。」
  • 153-4 「この時期、人事部門に教育課など教育専門部署をつくる大企業がふえてきている。日本の、とくに重化学工業では、明治末期までは労働者を企業が直接、雇用・管理せず、「親方職工」が請負い、募集・技能訓練・生活管理・作業管理まで親方がすべて管理をするという方式であった。しかし、技術進歩が早まるに連れ、直接管理せざるをえなくなる。とくに第1次大戦以降は、技術も高度化し、教育訓練も内部で行うようになったが、事務職の場合にはon the jobで行なうのが普通だったようだ。しかしこの時期の滔々たるアメリカ経営技術の流入は、いわば組織全体で受け止めなければならない勢いであった。この時期、人事・労務部門内に教育課、さらには研修施設を新設し、新入社員教育、管理・監督者教育、セールスマン教育等々は、講師も社員が当たるという大企業がかなり増えている。」
    ここからしばらく1963-1965年くらいまで「経営セミナー」ブームが続きます。
    • 「こうしたセミナーの受講者はもちろん業種も規模も異なる人たちで、その会場で異業種の仲間と交流が始まる。終身雇用の社会では交友の範囲も限られるが、セミナーを通して異なるビジネス・カルチャーに触れて視野を広げる必要性を感じるようになる。この頃、社会全体に自分の殻を破って、他の分野の人びとの交流を広げようとする空気が生まれてきた。先に、中央公論社版「現代経営学全集」の編集にあたった野田一夫、坂本藤良、宇野政雄、松田武彦、林周二は、これまで経営学者の範疇に入らない学者だったことは、すでに述べたが、この頃、あらゆる分野で“境界の溶解”ともいうべき状況が進みつつあった時代だったといえる。それまでは、職業でも学問でも業種でも、越えてはならない不文律の境界が存在していたものだが、それが消えつつある時代でもあった。」
  • 堺屋太一と2000年委員会
  • 坂本二郎(1968)『知識産業革命:脱工業社会への転換』 ダイヤモンド社 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2977247
    脱工業キタ!

3. 戦前からの連続と非連続

舞台は戦前の「能率運動」へ。戦前の「能率運動」と、戦後のアメリ経営学導入はつながっているよ、という話。

  • 156 「1940(昭和15)年7月、第2次近衛内閣が成立したが、この前後、政党、労働組合等が解散し、それらを統合したかたちで大政翼賛会が成立する。この新体制を作成する過程で、「所有と経営の分離」、「適正利潤」をめぐり、財界と企画院の対立があり、企画院の和田博雄、勝間田清一、佐多忠隆、稲葉秀三などの調査官が治安維持法で検挙されるという事件がおこっている(有沢、1994)。」
  • ◆新倉貴仁(2017)『「能率」の共同体――近代日本のミドルクラスとナショナリズム岩波書店 ISBN:4000018248
  • 156 「この時代――第1次大戦から戦後の高度成長期の日本を新倉貴仁は「ダニエル・ベルが“能率の崇拝”と呼んだ事態が、日本社会においても進行していたと理解することができるであろう」と言っている。
     新倉は続けて次のように述べる。
    「産業技師たちは科学的管理法の導入を通じて生産の〈能率〉を唱え、生活改善運動は〈生活〉の能率を訴え、革新官僚たちは〈能率〉ある社会の運営や国土の活用を目指した。」」

     日本能率協会は1942(昭和17)年、日本能率連合会と日本工業協会が合併して誕生した団体であるが、創立30周年を記念して『マネジメント60年―エフィシェンシーからマネジメントへ』と題する年表を発行した。1912年から1972年までの欧米も含む経営年表だが、それを見ると、エフィシェンシー=能率だけが重視され、マネジメントに関する事項はほとんど見られない。」

さすがわたくしたちの日本ですね。

  • 156 「実際には、“日本的経営”のモデルも生まれていた。武藤山治による鐘淵紡績、大原孫三郎の倉敷紡績の経営である。両方とも「経営家族主義」の典型と表現され、こんにちではほとんど忘れられている(間、1964)。鐘紡と並んで評価されるのが大原孫三郎の倉敷紡績だが、間宏は、大原は、武藤の「恩情主義、家族主義」と異なり、労使の「共存共栄」が重視され、「人格主義、」が強調されていると指摘している。
     ただこうした事例が同時代に経営情報としてどの程度共有されたのか、こんにちなら何らかのかたちでマス・メディアに紹介されるだろうが、当時はそうした感覚もなかったのではないか?」

4. アメリカの援助そして追随

  • 157 壱岐の『証言』では、土井正巳氏(猪狩注:当時、三井金属鉱業の教育課長だったかと記憶している)が
    ・昭和24年7月にはGHQのコレットという人がTWI(Training Within Industry=第一線監督者訓練)について講演しているし、
    ・10月には労働省小林正夫技官(猪狩注:のち日本産業訓練協会常務理事)が神奈川県工場教育協会で講演している
    ことを述べ、
    47年1月にはGHQが「2.1ゼネスト」の中止を命令したこととも考え合わせると、米国が、来るべきソ連を中心とする社会主義陣営との対立と、そこでの日本の位置をすでに意識していたことを述べている。
     そして1949年には、日本の電気通信関連企業の経営者向けに「CCS経営者講座」を開催、そのテキストをダイヤモンド社から出版し、かなり版を重ねた。このCCSとはCivil Communication Sectionの略で、GHQの民間通信管理部門名である。CCSは当時の日本の通信回線の度重なる故障が占領政策の障害になると判断してこの教育を導入、さらにMTP(Management Training Program=管理者訓練プログラム)は、かなりの数の大企業の管理者教育のプログラムに組み入れられている。」
4-2 新しい経営理念の創造へ――経済同友会の誕生
4-3 管理と運動
  • 158 「ZD運動とはQC(Quality Control)=品質管理の変型あるいは進歩型といえるもので、QCはすでに1949年頃、連合軍総司令部GHQ)CCS(民間通信担当部門)が日本の通信回線故障の頻発によって日本占領業務の障害になることから、AT&Tアメリカ電信電話)にQC教育を依頼したものである。その後、経営者教育はCCS経営講座として日本産業訓練協会に、品質管理はSQC(統計的品質管理)として日本科学技術連盟(日科技連)に継承された。「CCS経営者講座」のテキストはダイヤモンド社から出版されていて、改訂版も含めかなり重版を重ねていた。」

ダイヤモンド社を中心に回ってる世界です。

  • 159 アメリカ直輸入のQCには、「労働者を機械と同じ物とみるアメリカの品質管理思想がある」とした日本の実務家たちは、上からの管理ツールではなく、下からの運動、共同体の仲間仕事とすることによって参加意識を醸成できないかという意識があったのだろう。例えば当時、話題になった本のソニー厚木工場長・小林茂の『ソニーは人を生かす』(日本経営出版会)、川喜田二郎『チームワーク――組織の中で自己を実現する』光文社・カッパ・ビジネス)などにもそうした意識が見える。この頃、抽象的にいえば、「巨大化・官僚制の進行する組織の中で進む労働の非人間化」という問題、その克服が議論されるようになり、小林茂の本などはまさに現場からの解答だったといえよう。」

5. 経営ジャーナリズムの終焉

5-1 「経営学」の破算
5-2 「日本的経営」の再評価
5-3 歴史そして生きている人間への回帰
5-4 成長のマイナス効果