ご教示に従い「戦略/作戦/戦術」なる語の用法について確認する。
縮限さんとの議論のなかで、目的論と戦略(戦術)の関係が焦点になっていましたが、『知への意志 性の歴史I』(訳書p.122)にその辺りについてヒントになりそうな議論があります。ご参考までに。
— ダーヤマ (@da_yama_25) 2025年6月29日
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『知への意志』における登場回数は
- 戦略:50
- 作戦:04
- 戦術:27
このうち、
- 〈戦略-作戦-戦術〉がセットで登場するのは ②128-129
- 〈戦略-戦術〉がセットで登場するのは、①122-123、③129-132、⑤174
- 〈戦略-作戦〉がセットで登場するのは、④133-134
①122-123 第四章「装置」- 2「方法」
権力の関係は、意図的であると同時に、非‐主観的であること。事実としてそれが理解可能なのは、[…]、それが隅から隅まで計算に貫かれているからである。一連の目標と目的なしに行使される権力はない。[…] 権力の合理性とは、権力の局地的破廉恥といってもよいような、それが書き込まれる特定のレベルで晨々極めてあからさまなものとなる戦術の合理性であり、その戦術とは、互いに連鎖をなし、呼びあい、増大しあい、己れの支えと条件とを他所に見出だしつつ、最終的には全体的装置を描き出すところのものだ。そこでは、論理はなお完全に明晰であり、目標もはっきり読み取れるが、しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物はいず、それを言葉に表わした者もほとんどいない、ということが生ずるのだ。無名でほとんど言葉を発しない大いなる戦略のもつ暗黙の性格であって、そのような戦略が多弁な戦術を調整するが、その「発明者」あるいは責任者は、展々偽善的な性格を全く欠いているのだ。
②128-129 第四章「装置」- 2「方法」- 3「二重の条件づけという規則」
いかなる「局地的中枢」も、いかなる「変形のシェマ」も、一連の継続的連鎖によって、それが結局は全体的戦略の内部に書き込まれていないのなら、機能するはずはない。また逆に、いかなる戦略も、応用と結果ではなく支えであり拠点となるような、明確で細かい関係の上に立つのでなければ、総体的な効果を確実にはもち得ないだろう。それらの関係のうちあるものから他のものへは、二つの異なるレベル──一方が微視的で他方が巨視的といった──について言えるような不連続性はない。しかし同時に、同質性――一方が他方の拡大図であるとか縮約形であるとかいった――もない。むしろ想定しなければならないのは二重の条件づけであり、それは、
- 可能な戦術の特殊性による戦略の条件づけと、
- そのような戦術を機能せしめる戦略的覆いによるこれらの戦術の条件づけ
である。かくして、家族における父は、君主あるいは国家の「代弁者」ではなくなる。そして君主あるいは国家も、別の尺度における父の投影では豪もないのである。家族は社会を再現するものではないし、社会も逆に家族を模倣しはしない。しかし家族という装置はまさに、その島的な性格ならびに権力の他のメカニズムに対して異なる形態をもっという特性において──出産率のマルサス的コントロールであり、生めよ増やせよ主義の推進であり、あるいは医学への性の組み込み、生殖と結びつかぬ性の形態の精神医学化といった──大規模な「作戦」の支えとなるのである。
③129-132 第四章「装置」- 2「方法」- 4「言説の戦術的多義性という規制」
一方に権力の言説があり、それに対峙して、他方に権力に対抗するもう一つの言説があるのではない。言説は、力関係の場における戦術的な要素あるいは塊である。同じ一つの戦略の内部で、相異なる、いや矛盾する言説すらあり得る。反対に、それらの言説は、相対立する戦略の間で姿を変えることなく循環することもあり得る。性についての言説に対して[…]問いかけねばならぬのは、二つのレベルにおいてであり、それは
- これらの言説の戦術的生産性(権力と知とのいかなる相互作用をそれは保証しているのか)と、
- その戦略的統合(いかなる局面、いかなる力関係が、その時生ずる様々な対決のかくかくの情景においてこれらの言説の使用を必要たらしめているのか)
なのである。
要するに問題は、
- 法の特権視に代わって戦略目標という観点を、
- 禁忌の特権視に代わって戦術的有効性という観点を
立てることであり、
- 主権の特権視に代わって、力関係の多様かつ流動的な場の分析、すなわち総体的ではあるが決して全的に安定したものとはならない支配の作用が産み出されるようなそのような力関係の場の分析を
立てねばならないのだ。戦略のモデルであって、法的権利というモデルではない。しかもそれは、思弁的選択あるいは理論上の優先的決定というのでもない。そうではなくて、現に、西洋社会の根底的特徴の一つは、力関係という、長い間、戦争に、あらゆる形の戦いに主要な表現を見出だしてきたものが、次第次第に、政治的権力の次元に移されてそこに自らの地位を確立するに至った、ということに存する からに他ならない。
④133-134 第四章「装置」- 3「領域」
性的欲望というものは、[…]、権力の関係にとって極めて密度の高い一つの通過点として立ち現われる。[…]。権力の関係にあっては、性的欲望は最も内にこもった要素ではなく、むしろ、道具となる可能性の最も大きい要素の一つだ。極めて多くの作戦に用いることができるし、極めて多様な戦略の拠点、連絡点となり得るからだ。すべての社会に通用し、性のすべての発現に際して一様な形を示す、唯一の、総括的な戦略などというものは一つもない。たとえば、人々が様々な方法を通じて、性のすべてを、その生殖的機能に、その異性愛的でありかつ成人のものである形態に、結婚によるその正当性に還元しようと努めてきたという考えでは、男女両性にかかわり、様々な年齢、様々な社会階層にかかわる性についての政策の内部で、目標とされたような様々な標的、そのために動員されたような多岐多様にわたる方法を明らかにすることはできないだろう。
⑤174 第五章「死に対する権利と生に対する権力」
戦争はもはや、守護すべき君主の名においてなされるのではない。国民全体の生存の名においてなされるのだ。住民全体が、彼らの生存の必要の名において殺し合うように訓練されるのだ。大量虐殺は死活の問題となる。まさに生命と生存の、身体と種族の経営・管理者として、あれほど多くの政府があれほど多くの戦争をし、あれほど多くの人間を殺させたのだ。そしてこの輪を閉じることを可能にする逆転によって、戦争のテクノロジーが戦争を戦争の徹底的破壊へと転じさせればさせるだけ、事実、戦争を開始しまたそれを終わらせることになる決定は、生き残れるかどうかというむき出しな問いをめぐってなされるようになる。核兵器下の状況は、今日、このプロセスの到達点に位する。一つの国民全員を死にさらすという権力は、もう一つの国民に生存し続けることを保証する権力の裏側に他ならない。生き残るためには敵を殺すという、白兵戦の戦術を支えていた原理は、今や国家間の戦略の原理となった。しかしそこで生存が問題になるのは、もはや主権の法的な存在ではなく、一つの国民の生物学的な存在である。民族抹殺がまさに近代的権力の夢であるのは、古き〈殺す権利〉への今日的回帰ではない。そうではなくて、権力というものが、生命と種と種族というレベル、人口という厖大な問題のレベルに位置し、かつ行使されるからである。
「戦略-戦術」概念の採用について
121 あたりを見ると、これらが軍事用語であることを踏まえたうえで、しかし戦争と政治のどちらにも使える言葉として拡張的に使います、ということのようですね:
権力とは、特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称である。
それでは言い方を逆にして、政治とは、他の手段によって遂行される戦争なのだと言うべきか。おそらく、戦争と政治の間の隔たりを相変わらず保有しようとするならば、むしろこの多種多様な力関係は――部分的にであって決して全体としてではないが――あるいは「戦争」の形で、あるいは「政治」の形でコード化され得るのだと主張しなければなるまい。これこそ、これら不均衡で異質の、不安定で緊張した力関係を統合するための、相異なるが、しかし一方から他方へとたちまち雪崩込むような二つの戦略のはずである。
