私が買わねば誰が買うのかと思っていたらお贈りいただいてしまいました。どうもありがとうございます。
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訳者あとがきによると著者は「行動科学」という語を「認知心理学、社会心理学、行動経済学」の三分野を指すのに使っているとのことで、さしずめ「支那の百科事典*1」の趣がありますな。
「認知心理学、社会心理学、行動経済学の三分野を指すために、どうして他ならぬ行動科学なる語が使われるのか」という問いは、おおむね「なぜ認知経済学ではなく行動経済学なる語を使うのか」という問いに還元できるかな(?)
私が買わねば誰が買うのかと思っていたらお贈りいただいてしまいました。どうもありがとうございます。
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訳者あとがきによると著者は「行動科学」という語を「認知心理学、社会心理学、行動経済学」の三分野を指すのに使っているとのことで、さしずめ「支那の百科事典*1」の趣がありますな。
「認知心理学、社会心理学、行動経済学の三分野を指すために、どうして他ならぬ行動科学なる語が使われるのか」という問いは、おおむね「なぜ認知経済学ではなく行動経済学なる語を使うのか」という問いに還元できるかな(?)
〈宗教ではない〉キタ―――(゚∀゚)―――― !!
修養は cultivation の訳語
大正教養主義へ。
- 1. 年の動きと流行
- 2. 学びの場? それとも?
- 3. 利用者側の視点
- 4 . 五つの分類から見えるもの:①ファンクラブ型、②新しい働き方型、③情報型、④コミュニティ型、⑤物語型
- 5. 運営者側の視点
- 6. 曲がり角に立つオンラインサロン
歴史でワンチャン
ごもっともです。
1. 学生に足りない「社会的な視野」
2. 教養が死んだ後の世代
3. 教養は大学内部でも共有できない
4. 専門分野の情報爆発
5. 教養は役に立つのか
6. 議論や交流から始める教養のあり方
これは賛成。
わたくしが『在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活』で「思想の管理」と呼んだものですね。
これ面白いな。
私が「思想」をマネジメントの対象だと考えているのに対して読書猿さんは「モチベーション」にこの言葉を使う。他方、私の方は「哲学の講義」では、モチベーションの話は決してしないことに決めています。人類には、何かをするのにモチベーションが必要であるような魂のステージから早く卒業していただきたいですね。
ところで、行動科学が前提しているのは まったくもって「弱い人間」なのに、それをポップ心理学として取り込んだ自己啓発が「強すぎる人間」を前提かつ目標として置いてしまうのには捩れがあるね。これはどういう理屈なのかな。
これも、主張内容には基本的に賛成なんだけど、これ、直前に書いてあることとの関係が微妙ですね。①教養(パイデイアとしての)と②教養2(近代ドイツの)を区別したうえで、①を取って②を捨てているのでしょうが。しかし、日本語圏では、ドイツ語からの輸入語としてながいこと「教養」概念を使ってきてしまった以上、そこを拾ったり捨てたりするのは無理じゃないかなぁ。
由来を辿ればそうなのかもしれないけど、日本において人文知が実践知と結びつけて導入し・理解し・使うという伝統を我々日本語圏の人間は持っていないので、これも無理筋ではないだろうか。
なんでこんなに「人文知」に肩入れできるのか分からないなぁ。それって「現実には存在しないもの」へのコミットメントになってないですか?
「古い言葉を、その意味を変えながら使い続ける」という仕草自体が旧いヨーロッパの人文学的なものであるような気もするけど、私は、別のものを模索し・指示したいなら、そういうやり方自体をやめて、それに相応しい別の言葉を使って欲しいと思います。
「教養というのは役に立たないものだし、まさにそのようなものとして(日本では)求められてきた」という方が歴史的実情には近いし、まずは「どうしてそうだったのか」の話からしないと議論は難しい気がしますね。
8/17まで。
夜のお仕事準備。昨年9月の続き。
contractio.hateblo.jp
都市社会学、もしかしてパーフェクトな研究領域なのではないか。
都市社会学disが載っていると聴いて読んでみたところ、くだらない難癖すぎた。
巻頭「想像力の中の地下都市」冒頭:
- A──都市についての関心はいつ頃から持ち始めていましたか。
- B──都市そのものではありませんが、1963年頃、国際基督教大学で助手をやっていたとき、都市社会学及びそれに熱中する社会学の学生たちを見て、都市社会学というのはつまらない学問分野だなと思ったことがあります。
- A──どうしてそんな印象を抱いたのでしょうか。
- B──この分野が、単純な経験主義の視点にもとづく当時のアメリカの計量的方法の影響を最も強く受けていたせいでしょうかね。
- A──それ自身歓迎すべき方法だったのではないですか。
- B──ところが、この方法は、基本的に、計量可能な方法を中心にしか社会的現実を捉えることをしない。計量可能な方法で捉えうる現実とは、その実効的な側面に限られてきます。それ故、都市社会学はどちらかというと、都市計画とか都市の福祉といった、快適性を前提とする分野に視点を限るようになったように思われます。
- A──その視点は、あなたの社会学についての一般的な見解にほぼ一致しますね。そういう視点で視ると都市のどういった側面が抜け落ちるのでしょうか。
- B──先ずはっきり言って、都市の可視的な部分はよく見えるけど、不可視の部分はますますよく見えなくなるのではないでしょうか。
- A──あなたの現実の多層性についての考え方が、そうした見方に無関係ではないでしょうね。
- B──そうですね、都市社会学的な視点の最大の欠陥は、現実を生活の実効的な側面に限定することにあったのでしょうね。ところが都市は、その中に生きる人間の意識のあり方によってさまざまの相貌を示すものです。だから、計量的方法によって捉えられうるのは、そのごく一部にすぎないという自覚が、そういった方法に携わっていた人には欠けていたようです。
- A──たしかに都市については、いろいろな分野から捉えられはじめていた。特に映画が都市の不可視の部分に投げかけた光は大きかったと思いますが、いかがですか。
- B──当然のことながら、都市の動的な側面、そして移行することによって見えてくる都市を示したという点で、映画の果たした役割は大きかったと言えるでしょう。
- A──映画の中でも20年代の表現主義は都市の影の部分を描くのに長じていましたね。
「見える/見えない」と「光が当たる/当たらない」を混用するのやめろ。
巻末「ポスト・スクリプトゥム」[304]
- A──祝祭都市探索の長旅もやっと終わりましたが、都市については長い間こだわっていたようですね。
- B──そうですね。誰でも都市について一言あるとは思いますが、社会科学で都市を捉える視点・モデル・概念が、どうもすっかり衰弱してしまったという印象を多くの人が抱いています。何とかしなければと、長い間考えていました。
昭和だから仕方ないか。
34
「盛り場」という場は、都市空間の中に「位置づけられ」、集積されることによって「盛り場」としての「意味」が付与されるのであるし、逆に「盛り場」の意味としての娯楽、消費、祝祭性なども、「位置づけられ」ることによってはじめて社会の場に登場してきたのである。すなわち、時間・空間の「媒介性」こそが文化研究の中で問われているのではないだろうか。文化は生産・消費の様式や人々の「意味づけ」にかかわっている。日本における大衆消費社会は、都市空間を「位置づけ-意味づける」うえで重要な「媒介性」を有している。このように考えてくると、都市社会学者が都市化-郊外化、インナーシティ問題、ジェントリフィケーション、世界都市化などにおいて考えてきたものも、すべて〈社会〉と〈空間〉の「媒介性」を問題としてきたとも言えるのである。
ぜんぜん意味がわからなくてすごい。
読書会用。
第一部 行為の適宜性について第二部 値打ちと欠陥について、あるいは報償と処罰の対象について第三部 我々自身の諸感情と行動にかんする、われわれの判断の基礎について、および義務の感覚 |
第四部 明確な是認の勘定に対する効用の効果について第五部 明確な道徳的是認及び否認の諸感情にたいする、慣習と流行の影響について第六部 道徳哲学の諸体系について |