涜書:門脇俊介『現代哲学の戦略』

積んであったものを読む夕食。
デューイとハイデガー それぞれの技術論を、両者の存在論まで立ち返って比較した最終論文が面白いです。

かの有名な──というか悪名高い(?)──「危機の存するところ、自ずとまた...」というアレの、たいへん穏当な敷衍としても読める。

問題は、デューイとの対比ポイントになっている「コンテクストの偶然性」なるものの含意で、これにまるごと賛成してよいのかどうか 俄かには判断できません。要再考。

それはそれとして──この本に限らず哲学の本を読んでいてしばしば──思うのは、「自然主義反自然主義か」って、そんなに肩肘張って立場を争わねばならんもんなのか、ということですな。
とかいってる人は哲学とは無縁、ということなんでしょうけど。(困りませんが。)

現代哲学の戦略―反自然主義のもう一つの別の可能性

現代哲学の戦略―反自然主義のもう一つの別の可能性


議論の射程は、結論部分のハバーマス批判を見ればおおよその見当がつくのでは。>立ち読みのひと


■第9章「存在論プラグマティズム・テクノロジー」結論部分から [p.248-。改行およびリスト化は引用者による]

テクノロジーは、背景的理解についての無知を促進するものであると同時に、非明示的に背景的理解に依存したままであるという、二重の認知的な関係を 背景的理解との間に形成していた。この二重の認知的関係が、テクノロジーの分節化に関連する、さらに二重の問いを生み出す。 という問い、そして、
  • そうした背景は、どのような仕方で(そしてどのような機会に)開示され、明るみに出されうるのか
という問いである。

 ユルゲン・ハバーマスは、この問いに対して、強い影響力のある解答を与えている。第一の問いに対するハバーマスの解答は(単純化をあえていとわないなら)、次のようなものである。

  • 後期資本主義期においては、コミュニケーションの過程が埋め込まれている「生活世界」のコンテクストが、貨幣や権力のような「制御媒体(..)」によってその役割を奪われてしまい、あるべき規範性を構成できるためのコミュニケーションの資源を奪われてしまっている

と。ハバーマスはこの過程を「生活世界の技術化」と呼ぶ。第二の問いに対する解答。

  • 生活世界がこの「制御媒体」の抑圧から解放され、そのコミュニケーションの資源が回復されるためには、生活世界に住まっているわれわれが、近代の道具的合理性といまだに分離されていないコミュニケーション的合理性を、理念的な民主的討議を確立する能力として従前に発展させることができるように、われわれ自身の生活形式を変えていかなければならない。

 ハイデガーは、生活世界のコンテクストの類比物(正確な等価物ではない)としての背景的理解が、理性的な制御の外部にあるシステムによる「植民地化」を蒙っていること、こうした植民地化が背景的理解に対する認知的な接近の可能性に特にかかわっていることに関しては、ハバーマスに同意するだろう。しかし、システムが理性的な制御の外部にあるというこの見方は、深刻な問題を突きつけてくるだろう。[すなわち、]もしシステムが、コミュニケーションの基盤を因果的に支配する外在的な要因のゆえに制御不可能なのだとしたら、システムによる支配は、認知的・コミュニケーション的な意味の核に達しないだろうし、生活世界に対してシステムが有意味な関連性をもつということも言えなくなるだろう
 ハバーマスはこの懸念に対して、

  • システムによる支配は近代の道具適合理性の拡張に由来するのだ、

と応答しているように思える。だがこの応答は、今述べた懸念に換えて、

    • 拡張された道具的合理性がどのようにコミュニケーションの基盤を隠微してしまうのか、

また、

    • われわれはこの隠微からどのように解放されてコミュニケーションの基盤を再獲得できるのか

という問いを生じさせる。ハイデガーならハバーマスの応答に対して次のように応じるだろう。

  • 道具的合理性をどのように拡張し複雑化したとしても、道具的合理性が それ単独で生活世界を規制することは不可能である。なぜなら、命題的内容の形式をとったルールの束としての──ハバーマスが構想する限りでの──道具的合理性は、背景的理解を欠いては、その適用に必要な適切な関連性を与えることができないからである。

さらに、われわれのコミュニケーション的合理性のみでは、道具的合理性に対抗することはできないとハイデガーなら主張するだろう。平等な権利を与えられた参加者の間での明示的に開かれた対話だけで、偶然性を蔵するコンテクスト性によって非明示的な仕方で支えられている機能的全体を、打ち破るのに必要な資源は提供できない。背景的な理解が変わることが要求されているのだと。ところがハバーマスは、支配的なテクノロジー的システムが生活世界に根付くのは、「法的制度」によってのみであるという主張を続けるのである*。

ハバーマスの謂う「システム」──そしてまた「道具的合理性」──とやらは藁の犬、というまとめで。

仮に「システムによる生活世界の植民地化」なる現象が生じているのだとして、しかし、ハバーマスの「システム」論では、なぜそもそもシステムはそのようなたいそう大それた権能を持ちうるのかが まったくわからない
しかし、それがわからないということは、それにどう対応すればよいかも やっぱりわからない、ということを意味するはずだ、
ということ。


えぇとね。ここでついつい、

  • 「道具的合理性に対抗するのにコミュニケーション的合理性では足りないかどうか(足りないなら何を足せばいいか)」
  • 「“それだけ”じゃ足りなくても、でもそれを謂うこと“自体”には意味あるんじゃね?」*

とか発想しがちなわけですが。
でもそっちへ進む前に、こういう場合はまず、そもそも問いの立て方を間違ってないかどうかを考えたほうがいいわけですよ。

* ご参考:
「私が語っているのが理想に過ぎないことは認める。しかし各人が理想に向けて努力することは、たとえその理想が虚だとしても、結果的に各人の間の了解可能性を高めることに貢献してくれると期待できる」 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20071111/p1


■追記:id:contractio:20071219

本日の雑念。

おい識者。

研究者は決して特権的な位置にいるわけではなく

って書きたくなるときってどんなとき?


こんなことわざわざ書くことになんの意味があんの?

つーか。「特権的な位置」というのに意味がないと、「いるわけではなく」という表現の意味はわかんないよね?
じゃぁ「特権的な位置」ってどんな「位置」なの?

汐留の歴史

たいへんキモチ悪い街ができあがっていたのでびっくりしたわけですが。id:contractio:20071211

汐留はその名のとおり、かつては海辺の湿地帯であり、江戸時代の町づくり計画によって埋め立てられ、大名屋敷を有する武家屋敷街となった。明治になって日本初の鉄道が開設された際、「汽笛一声〜」で知られる新橋ステーションがこの汐留に建設され、華やかで活気のある街となったが、その後、大正になって東京駅が開設されると、旅客運輸の機能が現在の新橋駅に移されて汐留は貨物専用駅となり、昭和61年(1986)に廃止されるまで、街は小運送店の集まる貨物ターミナルを形成していた。
 区画整理事業は、東京ドーム約7個分という広大な跡地を対象に、土地利用の大規模な転換を図り、都市機能を更新する目的で、1995年に始まり、平成19年(2007)の完了を予定している。

http://www.token.or.jp/magazine/g200108.html

ということなので、できたばっかなんですねー。
まだ、道路整備とかやってるところもありましたし。

YSTアルゴリズムのバージョンアップ

さて。


けっこう順位がかわりましたな。

[Yahoo:エスノメソドロジー]

本屋さん(not 出版社)へのリンクがありません。どんだけ注目されてない語なのかと。
古いページは強いなぁ(五位&十位)。


ちなみに、アマゾンの表示順位でも『ワードマップ』が一位になっておりますな。

お買いもの:野口ほか『経済政策形成の研究』

12/22日問題。id:contractio:20071211:p1


とりあえずこれを買っておく。

経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克

経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克