哲学者達が専念してきた「本物であること(reality)」の問題は、科学者達の関心を引きつけてはきませんでしたが、これに対して(私が誤解していないならば)哲学者達が無視する傾向にある確かさ(sureness and certainty)の問題は、科学者達の関心を相当程度引きつけてきたように思われます。尺度と基準という装置は、総体として、不確かさに対抗しつつ言語のもちうる精密さを高めることを目標にしているように見えますし、こうした努力には、科学においては十分見返りがあります。しかし「本物の(real)」および「本物でない(unreal)」という語については、科学者達は賢明にも、実質の明確な言葉によって代替する傾向を示しています。科学者達は、次々と多様さを増していく様々なケースをカバーするために、こうした代替用語を次々に発案し、定義していきます。科学者は「それは本物であろか」とは問わず、「それは変性しているか」、「それは同素体であるか」、等々と問うのです。[p.136]
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1 本物であること(Reality)
もしあなたが私に、「どうやってそれが本物の棒切れだと知ったのか」、「どうやってそれが本当に曲がっていると知ったのか」(「彼が本当に怒っているということは確かなのか」)と問うのであれば、あなたは私の資格証明もしくは私のあげる事実に関して(ただし、そのどちらについてであるのかは、しばしば不明確なまま)一定の特殊な仕方で疑いを向けているのです。
私が知っていると自称した事柄の性質しだいで決まるさまざまな特定かつ公認の仕方において、私のその時点での経験、もしくは話題となっている当のものそのものが(場合によっては、そのどちらであるか明確でないこともありますが)正常でない、つまり、まがいもの(phoney)であるということがありえます。まず、私自身が夢を見ているとか、譫妄状態になっているとか、薬物の影響下にある、等々のことがありえます。また、当のものの方が、剥製や絵や模型や模造品であるとか、奇形であるとか、トリックであるとか、おもちゃであるとか、見せかけやにせもの等々であるといったこともありえます。さらにまた、私の ほうが悪いのか、それとももの──蜃気楼、鏡像、特殊な照明効果、等々──のほうが悪いのかについては、ある不確かさがあります(どちらとも決まらないことがありうるのです)。
これらの疑いはすべて、個々のケースのタイプに適切な公認の手順(もちろん、争かれ少なかれ大まかな仕方で認められているわけですが)によってはらされるべきものであります。
夢を見ているのか目覚めているのかを区別すること、ある物が剥製なのか生きているのかを判定すること、等々のことについては、それぞれ一定の公認の方法というものがあるのです(もし夢とうつつを区別する方法がないのなら、これらの語を使い、対比させる方法を、われわれはどうやって知ることができるでしょうか)。「しかしそれは本物(real one)なのか」という問い、ないし疑いは、常に特定の基盤を持っています(持たなければならないのです)。 そのものが本物ではないと示唆するためには、何らかの「示唆する理由」というものが必要であり、しかもそれは、そう示唆する際に、この経験もしくは当該のものが まがいものであるかもしれない 一つないしそれ以上の 限られた数の特定の仕方に対応しているのでなければなりません。
何が示唆されているのかは、しばしば(普通は)文脈によって明らかにされます。コジキヒワは剥製であるかもしれませんが、蜃気楼であるかもしれないと示唆する余地はありません。オアシスは蜃気楼であるかもしれませんが、剥製であるかもしれないと示唆することは不可能です。文脈がこの点を明らかにしてくれない場合には、私には「どういう意味で言っているのか。剥製かもしれないということなのか。そうでないなら何であるかもしれないと言いたいのか。いったい何を言いたいのか」といった具合いに問う権利が与えられることになります。形而上学者の策略は、「それは本物のテーブルなのか」と問いかけておきながら(テーブルというものが、仮にまがいものであるとしたらどのようなタイプのまがいものでありうるかという点が少しも明白ではない種類の対象であるにもかかわろず)当該のものにどのような点でよろしくないところがある可能性があるのかを詳しく述べたり、限定したりするということをしないということからなっています。その結果私は、それが現に本物のテーブルであるということを「どうやって証明すればよいのか」途方にくれさせられるのです9。 「本物の(real)」という語のこのような使い方こそ、この語が単一の意味(「実在世界(the real world)」、「物的対象(material objects)」)を──しかも深遠にしてやっかいな意味を──もつという想定にわれわれを導いてきたものにほかなりません。
われわれは、そう想定するかわりに、常に「本物の」が何に対比されているのかを──当該のものが「本物」であることを証明するために、そのものが「何でない」ということをこちらが証明しなければならないのかを──詳しく述べることを要求するべきです。そうすれば、普通は個々のケース毎にそれぞれ、「本物の」という語の代わりに使える、何らかの、これほど壊滅的な帰結をともなうことのない、適切な語を見いだすことができるはずなのです。
そのものがコジキヒワであるということを私が知っていると私が言うとき、普通の場合には、そのものが「本物の」コジキヒワであるということを知っているかどうかということは問題にはなりません。理にかなった範囲の用心だけがなされるのです。しかし、特殊な場合には、この点が実際に問題となるかもしれません。その場合私は、それが本物のコジキヒワであることを確かめますし、その際には他の証人による裏書が特別に重要な役割を果たす場合もあるでしょうが、それでも私がこのことを確かめるやり方は、それがコジキヒワであることを確かめたときのやり方と本質的には同様のやり方であります。この場合にもまた用心は、その際の企図や目的に照らして理にかなった範囲を越えるものであってはなりません。そしてまた、普通の場合とまったく同様に特殊な場合においても、さらに次の二つの条件があてはまります。
- (a) 私はそれがそうであるかどうかを常に知ることができるわけでは決してありません。そのものは、私がそれをテストにかけたり、徹底的に調べ上げたりする機会を得ることができないうちに、飛び去ってしまうかもしれません。これはまったくあたりまえのことです。ところが、ある人々の内には、私が真相を知らない、ないし究明できない場合があるという理由で、私には決してそうすることができないのだと論じようとする傾向が見られるのです。
- (b) 「それが本物であることは確かめた」ということが、人間という種においてのことでしかない限り、奇跡や自然自身の法則逸脱に対して何の反対証明にもならないことは、他のどんなものの場合ともまったく同様です。もしそのものがコジキヒワであるということ、しかも本物のコジキヒワであるということを確かめたのならば、将来そのものが何か異常なこと(爆発するとか、バージニア・ウルフの作品を引用するとか、何かもっと違うこと)をしたとしても、われわれは、それをコジキヒワであると言ったのは誤りであったとは言いません。われわれはそんな場合になんと言ったらよいかなど知らないのです。われわれは文字どおり言葉につまります。この場合最初の段階ではコジキヒワであると言うほかに何か言いようがあったでしょうか。また、こんなことが起きた後でわれわれに何が言えるでしょうか。あなたなら、いったい何と言うでしょうか。そのものが本物のコジキヒワであることを私が確かめた(剥製ではない、利害関係のない第三者による裏書も得た、等々)ならば、私は そのものが本物のコジキヒワであると言う際に、「予言をしている」のではありませんし、あるまっとうな意味において、何がおころうとも私が誤っていたことが判明することはありえないのです。常に未来の出来事によって誤っていたことが判明する可能性があるという点で、言語(あるいは言語の大部分、実在の事物に関する言語)が「予言を含む(predictive)」と想定することは、重大な誤りであるように思われます。未来がわれわれに対して常になしうるのは、コジキヒワ、あるいは本物のコジキヒワ、もしくは他の何物かについてのわれわれの観念を改訂させることなのです。[p.123-7]