β〈体験〉という語の歴史について

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小見出しは勝手に入れたもの。

前ふり:「erleben」の二つの意味から出発して

 〈Erlebnis 体験〉という語がドイツ語の文献の中に出現する事例を調べてみると、〈Erleben 体験する〉という語の場合と違って、一九世紀も七〇年代になってようやく普通に用いられるようになったという、驚くべき結果がえられる。[...]

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「直接性」

 〈体験する〉という動詞は名詞の〈体験〉よりもずっと古くから用いられ、ゲーテ時代において多く見られるものであるが、ここでは、〈erleben 体験する〉という動詞から派生した〈Erlebnis 体験〉という語が問題であるから、この新しい造語を行なった動機を〈erleben〉という語の意味分析をすることによって考えなければならない。ところで、〈erleben〉とは、なによりもまず、「なにかあることが起きるときに、まだ生きていてその場に居合わせること」 をいう。ここからして、〈erleben〉という語には、現実的なものを直接に捉えるというニュアンスがある

──それは他人から聞いたことや、うわさから出たものであれ、また、推論や、憶測や、想像したものであれ、とにかくそれについて知ることはできても、自分自身の体験による確証が欠如している場合と反対である。つまり、体験されたものはつねに自ら体験したものなのである。
成果

 しかしながら同時に、〈体験されたもの das Erlebte〉という表現形式は、そこで体験されることの持続的な内実をそのような表現によって表示する意味で用いられる。この内実は、体験という過ぎ去っていくものから、持続や、重さや意味を獲得した成果(Ertrag)ないし結果(Ergebnis)のようなものである。したがって、〈Erlebnis〉という造語の根底には、明らかに、いま述べたふたつの意味の方向がある。すなわち、

  • あらゆる解釈や咀嚼や媒介に先立って、解釈には手がかりのみを、咀嚼には素材のみを提供する直接性という意味と、
  • その直接性をもとに追求された成果ないし、その直接性の持続的な結果という意味

のふたつである。

伝記: 「直接性と成果の連関」の認識としての

 〈体験する〉という語がこのような二重の意味の方向をもつことに対応して、〈体験〉という語はなによりもまず伝記を通じて市民権をうるようになった。伝記の本質、とりわけ一九世紀に書かれた芸術家や詩人の伝記の本質は、そのひとの生涯から作品を理解すること にある。伝記の働きは、まさに、〈体験〉という言葉で確認されるふたつの意味を媒介すること、あるいは両者をひとつの生産的な連関として認識するところにある。すなわちなにかあることが体験となるのは、単にそれを体験したというだけでなく、それを体験したということが特別の重みをもち、事柄に持続的な意味を附与するからである。このようにして〈体験〉となったものは、まして芸術的に表現されれば新たな存在状態をうることになる。

ディルタイの有名な『体験と文学』という書名は、この連闘を鮮明に定式化している。実際のところこの〈体験〉という語に概念としての機能を最初に与えたのはディルタイにほかならなかった。この語はほどなく流行語となり、じつに明快な価値概念を表わすものとまでされて、ヨーロッパの多くの言語に外来語として取り入れられたほどである。とにかくディルタイの〈体験〉という語のように術語として次第に洗練され重みを増していったことの中には言語生活本来の推移そのものがまさに沈澱している、と考えてよいであろう。