あいかわらず『論研』も『真理と方法』も出てこない。かわりに(?)これが見つかったので読んでおく。
- 作者: オットー・フリードリヒ・ボルノー,高橋義人
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1986/02
- メディア: 単行本
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トリアーデ登場。
II 晩年における生の範疇 - 4 表現
中心的な体験のもつ 意義[Bedeutung] を軸としながら人が自己発展に努めていると、生はいわば自ずから形成されるであろうが、しかし、それとは違った形成の仕方もある。その場合、生は、眼で見、耳で聞くことの出来る〔外的〕世界の形成物となって自ら進んで客観化されるとともに、この客観態のなかで自らを形成してゆく。だからこそディルタイは生が自ら行う表現について何度も語っている。もっともこれは誤解を受けやすい概念であろう。表現というと、美的な狭い意味に捉えられやすいからだ。だがディルタイはこの概念をもっと広い意味に取っていて、それを三つに分類している(VII,205ff.)。
- その第一は、概念や、判断や、それよりも大きな思考連関といった論理的・言語的形成物であり、
- 第二は 行為もしくは活動であり、
- そして第三は 狭い意味での体験の表現である。より誤解を受けることが少ないのは、生の表出(Lebensäusserung)という呼称であろう。
「感覚世界に現れる生の表出は、精神的なものの表現にほかならない」(VII,205)さて体験と理解を直接的に結ぶ関係に代わるのが、表現を経由する間接的なやり方である。従来の哲学の基礎づけは自己省察に基づいていたが、『精神科学序説』第二巻のための計画において展開されているように、このやりかたは表現を経由することによって根本的に拡充されるに至った。こうして体験、表現、理解という三位一体が、ディルタイが自分の晩年の哲学を集約するときの定式に、いくたびとなく散見される定式となったのである。 [p.52-53]
- 感情や怒りや苦しみなどが表情や身ぶりを通して肉体の動作のなかに表現され、他人にも理解できるものになっている場合には、体験の表現はすでに最も単純な姿で現れている[上述「第二」]。
- しかし体験の表現が豊かに開花するのは、それがある作品となって、つまり芸術作品のような純粋な姿となって、永続的な形態を帯びている場合である[上述「第三」]。
体験の表現の大きな働きは、これまでには隠されていた心的生の無意識の底層が、この表現の中に認められるという点にある。
「つまり表現のなかには、どんな内省(Introspektion)も与えてくれないような多くの心的連関が含まれている」(VII,206,vgl. VII,329f)別の箇所にはこう記されている。
到達できない深みの上に、意識的な生の小さなひろがりが島のように姿を現している。しかし表現はこの深みの中から汲み上げる。表現は創造的なのだ。(VII,220)
[p.55]
引用していると陰々滅々としてくるな。
- 作者: 塚本正明
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2003/12
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ネタ。体験流の想い出。
III ディルタイのフッサールに対する関係 - 3 ディルタイの概念用法に見られるフッサールの影響
フッサールの講義を聴いたことのある人は、彼が「体験の流れ」という言葉をいつも手振りで具体的に説明していたことを思い出すであろう。彼は右手を左上方から右下方へと斜めに下ろしながら、その際に、対峙しあっている人差し指と親指とを波形に運動させていた。これこそは途切れること無く続いてゆく体験の流れの印象的なイメージである。 [p.71]
「具体的」という言葉の使い方を間違っていると思った。
ところで『マックス・ウェーバーの科学論―ディルタイからウェーバーへの精神史的考察 (MINERVA人文・社会科学叢書)』って本あったよなぁ...とおぼろげな記憶を辿りつつ検索....