第1章第3節

3:過程と構造の分化〜再帰的自己準拠

 複合的システムは、その環境と比較して複合性の落差があることにかんがみて、時間的に考えても、環境との一対一の対応関係を拠り所としえないだけではない。そうした複合的なシステムは、環境との完全な同時化を断念しなければならないし、環境との一時的な非対応のもたらすリスクをくいとめることができなければならない。「この独自性を維持する諸過程は、即時的適応だけをともなうとは仮定できないのであり、時間をかけているパーソンズ。 したがって、システムは環境に対しての時間のずれをしつらえなければならない。そうはいっても、システムと環境が相互に適応したり、訂正し合ったり、補完し合ったりすることが、かならず同時におこなわれる必要はないし連続的におこなわれる必要もない。システムは、反作用をあらかじめ準備することができるし、不測の事態に備えることもできる。言い換えれば、システムは、ある時点でのチャンスや撹乱に対して、長い過程で反作用しうるし、またその反作用を延期しても、その間に崩壊しないですむことができる。こうした時間問題の解決は、変異に富んだ環境のなかで存続しようとするシステムならかなえなければならない構造的な前提条件のもとでのみ可能なのである。言い換えれば、時間問題を解決するためには、とりわけシステム内部の相互依存を限定することが必要である。そのことは、複合性の問題や自己準拠の問題に関連してくる!
 システムがこのように環境から分化することの不可避性は、比較的大きなシステムにおける諸要素の結合の可能性の限定としての複合性ということから生じている。どんなシステムでも、システムのすべての要素がそれぞれそれ以外の要素と結びつくという論理的可能性を実現することはできない。このことが、複合性のあらゆる縮減の出発点である。システムが諸要素のあらゆる結合の可能性を確保しようとしたり、さらには、そのすべてを同時に実現しょうとするのなら、そのシステムはきわめて小さいものにとどまるにちがいない。そうでなければ、

システムは選択と選択の関係を整序し強化しなければならない。このことは、選択過程の再帰性をとおしておこなわれる。選択過程が、具体的に、つまり、そのシステムの最終の要素の水準で確定的に選択を選び出す前に、こうした選択過程は、まず最初にその選択過程自体に向けられるのである。そのために、構造と過程という二つの異なる形式が用いられている。

構造のばあいも過程のばあいも、相互に他方を前提としている。なぜなら、構造の形成は、数々の条件をふまえてはじめて可能とされる(完全に偶然的には規定されない)ということを考えてみると一つの過程にほかならないし、それに対して過程も構造を備えているからである。構造と過程は、時間に対する関係の差によって区別されている。

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Gelten (と Geschehen)

  • 構造は、時間を可逆的なものとして保持している。
      • というのも、構造は選択の諸可能性の限定されたレパートリーを確保しているからである。構造を廃棄したり変化させたりすることができるし、逆に、その構造によってそれ以外の箇所での変化に対する安全さを獲得することも可能である。
  • これに対して、過程は時間の不可逆性を強調している。
      • 過程は不可逆な出来事から成り立っている。過程は後方へは進めない。

しかしながら、構造と過程という双方の時間配列は、それぞれの異なる仕方でじっさいの選択にさいして、選択性の強化つまり選択諸可能性からの前もっての選び出しに役立っている。

  • 構造は、「現に通用している」、おなじみの、期待可能で、くりかえしうる関係、または選好され続ける関係という限定されたパタンで、それぞれの要素とそれ以外の要素を結びつけうる可能性というあからさまな複合性を捕捉しており、構造は、そうした可能性をそのつど見通しうる関係態へと縮減することによって、そうした選択をとおしてそれに引き継ぐ選択を教示することができる。
  • これに対して、過程は、具体的な選択的な出来事が、それぞれ時間順に前の出来事に基づいており、互いに接続しており、したがって、それ以前になされた選択、またはこれから予期されうる選択が、個々の選択における選択の前提とみなされることによって成立している(それゆえここでは、このことによって、過程概念が定義されなければならない)

したがって、選び出されうるものについてのあらかじめの選択は、

  • 構造のばあいには、妥当なものとして経験されており、
  • これに対して過程のばあいには、具体的な諸出来事のシークエンスとして経験されている。

したがって、再帰的選択の二つの配列としての構造と過程はいずれも、比較的多数の前提条件のもとでおこなわれるもの、したがって不確実なことがらへと選択を誘導しており、それゆえに時間を必要としている。個々のシステムが最小限のシステム規模やごくわずかな複合性を有するシステム以上のものになれるのは、システムが選択強化の二つの可能性、つまり構造の用意と過程の用意をととのえるばあいにかぎられており、またそのための十分な時間をシステムが活用しうるばあいにかぎられている。

 システムは、それ自体の構造と過程を用いているばあいに、システムによって生産されまた再生産されるすべての要素を選択性強化のこの二つの形式に割り当てることができる。そうすることにより、システムは、それ自体のオートポイエシスを調整できる。だが、このようにシステムが選択性強化の二つの形式をとおして要素として可能なもののすべてを把握するといっても、環境の所与の諸条件のもとでは、過度に排他的におこなわれるわけではない。そうした把握は、もっばら差異図式としての機能を営んでいる。つまり、

  • 構造を顧慮するさいには、同調的な出来事と離反的な出来事が
  • 過程を顧慮するさいには、確実な出来事と不確実な出来事とが

それぞれ考量されなければならない。システムの秩序の利得の核心は、そのシステムが、この差異に指向して、それに基づいてシステムのオペレーションを調整しうることに存している。

 個々のばあいで言えば、時間をかせぐという問題の解決のきわめて多種多様な形式がみられる。そうした諸形式は、それら相互の関係において機能的に等価である。したがって、この諸形式は、複雑に構造化された前提条件のもとで交互に負担を軽減し合ったり、さらにまた交互に補完し合ったりしている。かかる諸形式は、それぞれそれ自体として、みずからを拡充するうえでそれぞれに内在的制約を有しているのだが、そうした諸形式が組み合わされることにより、時間を処理する上ではかりしれない進展がみられることになる。

  • 【経験の貯蔵と再利用】 まず第一に、成功した「諸経験」を再利用するために貯えることのできる仕組みが見いだされる。そのことを可能にしている構造(たとえば、記憶)は、じっさいに危険やチャンスが発生する時機を考慮に入れてはいない。構造は、時機を問わないという水準で時間問題に応えている。そのもっとも単純な原型は、システムのさらなる発展のためにそれ自体の複合性を十分に保持してなんらかの好ましい環境との組み合わせのばあいにかぎってだが、その発展のチャンスを実現しうるシステムのなかに存している。こうしたシステムの可能性は、いわばさしあたり静止しており、システムと環境の偶然の組み合わせによりそれを実現する可能性のためのチャンスが到来する時機に備えている。
  • 【シミュレーション】 第二に、スピードのことを考慮しなければならない。すなわち、システムの過程に対して、それと関連している環境の過程に比してより速いテンポを与えることをそのシステムに可能とさせている仕組みのことが考慮されなければならない。テンポがまさっているということは、それ自体として非常に多様な目的に役立てることができる。環境の今後のあり様に関するシミュレーション、不測の事態への用意、すみやかに過ぎ去ることやすみやかに追いつくこと、さらにまた、環境に左右され、あまりにも動きのとれない特殊化の回避などのためにスピードを利用することができる。より速ければ、その間に何か別のことをやることができるのである。
  • 【意味処理】 第三の問題解決は、諸時間の関連した諸状態の集合と統合と名づけられてよい。それは、過剰に複合的な事態をそれぞれの時点において把握する能力を前提にしている。
    この能力については、次章で「意味」というタイトルのもとで再び取り上げられる。したがって、この解決は、システムの複合性と環境の複合性の関連を意味の形式で取り扱っている心理システムや社会システムに関してしか期待できない。原則としてそこで主題とされているのは、間違って想起したりまたは間違って予期したりするリスクを引き受けつつ、その時点で顕在化されていないものを顕在化する能力なのである。そのさい、そうした可能性を現実化するさいの大まかな枠を定める条件となっているのが、時間の集合についての表象、過去と未来の差異としての不可逆性の解釈、および時間について見いだされる食い違いを統合するための現在の利用なのである。このための古典的な標題である「知恵(pudentia)」は、動物から人間を区別するメルクマールなのであり、それは顕在的でないものを顕在化するこの潜勢力がその適切な使用の点で厳しい制限のもとにおかれていることを同時に意味している。同様に重要なのは、この知恵という潜勢力は、一方では[基底的自己準拠の水準において]スピードを貯えており、他方では、それ以外の過程水準[過程的自己準拠]やシステム水準[反省的自己準拠]におけるスピードを前提にしているということである。一つがいのハリネズミは、ノウサギのぱあいに比べると、社会システムとして知恵に富んでいる。つまり、ノウサギがたんにすばやく走ることができるのに対して、ハリネズミは、迅速に高度に選択的に連絡し合うことができる。古代の社会であれば、こうした知恵で十分であったと考えられる。高度の複合的な社会になってはじめて、つまり近代になってはじめて、時間の拡大にとって重要な知恵に対する関心は、すばやく判断することに対する関心によって追い越された。すなわち、個人的な好みが理性よりもすばやく判断を下しうることが、十八世紀に発見された。なぜならそうした好みの基準が個別化され、自己観察によって正当化されうるようになったからである。