涜書:ミンツバーグ『マネジメントについて』

isbn:4478170258 http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060319

第2章「戦略を工芸制作する」

 戦略とは何かと尋ねられたら、ほとんどだれもが

    • 一種の計画案、つまり未来の行動に対する何らかの明示的指標

と定義するであろう。そこで次に競争相手、政府、あるいは自分自身でもよいから、現実にこれまでどんな戦略を追求してきたかと尋ねてみるがよい。おそらく

    • 過去の行動の一貫性──ある期間を通してみられる行為のパターン──

描出するであろう。そこで判明するのは、戦略とは人々が一方であるふうに定義し、他方で別のふうに使用する、そのくせ、違いに気づかずにいる言葉の一つだということである。

 その理由は簡単である。戦略の正式の定義がどうだとか、語源がギリシャの軍事用語であるとかいったことにかかわらず、わたしたちはこの、言葉を、未来の意図的行動を描出するためばかりでなく、過去の行為を説明するためにも、必要としているということである。要するに、戦略は計画立案され、意図されるとともに、実際に追求され、実現されもする(もしくは実現されない)のである。そして過去の行為のパターン、すなわちわたしの言う実現された戦略は、そうした追求を反映する。さらにまた、計画案が必ずしもパターンを生むわけではないのと同様に(意図された戦略のあるものはまったく実現されない)、パターンが必ずしも計画案の結果でなければならないわけでもない。組織は知らず知らずに、ましてや明示化など思いもよらずに、パターン(実現された戦略)を発達させる。

 パターンはもちろん美と同じように、見る人の心のなかにある。[‥]

 [‥]たとえばフォルクスワーゲン社の製品モデルを1940年代後半から、1970年代後半までたどると、ビートル車への集約、それに続く1960年代後半の買取や新型モデルの社内開発による必死の代替車探索、そして1970年代中期に至ってスタイリッシュな水冷式前輪駆動車を中心に展開される戦略的志向転換、というある明瞭なパターンが現われる。

 では意図された戦略──すなわち戦略という言葉を使うときに連想するあのフォーマルな計画と宣言──についてはどうか。皮肉なことに、ここではありとあらゆる種類の問題にぶつかることになる。たった一人の工芸家についてさえ、その意図された戦略が現実にどんなものかを、どのようにすれば知ることができようか。もし時間を遡れば、意図の表現を発見するだろうか。もしそうだとして、それを信用できるだろうか。わたしたちはしばしば自分の下意識的な動機を否定することによって、他人ばかりか、自分たちまでも欺く。しかもつけ加えれば、少なくとも現実に比べて意図は安くて済む。

組織の心を読む

 [‥] フォルクスワーゲン社の意図された戦略がどんなものであるかについては言うまでもなく、それが現実に何を意味しているかについて、だれが知るだろうか。このような集合的文脈のなかで、会社の意図された戦略がそのフォーマルな計画案によって、あるいは重役室から漏れてくるその他の言明によって代表されると、単純に仮定できるだろうか。こうしたものは空しい願望とか、あるいは競争相手を欺くワナではないだろうか。またもし、このように表現された意図が存在したとしても、組織の他の人々がどの程度までそれを分かち合っているのだろうか。集合的心理をどのようにして読むのか。それよりもむしろ、いったいだれが戦略家なのか。

 戦略的マネジメントについての伝統的見解では、こうした問題は組織理論家たちが言うアトリビューションによって簡単に決着がつけられる。その例は、いつでもビジネス雑誌で見ることができる。ゼネラル・モーターズ社が行動に出るのはチーフ・エグゼクティブが戦略を定めたからである。実現を見たからには、そこには意図があったはずであるとされ、それは自動的にチーフに帰結させられる。

 短い雑誌記事のなかでなら、こうした仮定はたとえまちがいであったとしても理解できる。記者諸君には戦略の発生源を探し出すだけの時間がないし、GMは大きく複雑な組織である。しかしこの仮定の下に、複雑で混乱した事態がどれだけ押しこめられてしまったかを考えてみるがよい──会合や討議のすべて、関係した大勢の人々、行詰まり、アイデアの誕生と死滅などが。そこでそのような仮定に基づくフォーマルな戦略策定システムをつくろうとしたとする。フォーマルな戦略的計画立案がぶざまな失敗に終わることが多いとしても、何の不思議もない。

 混乱をある程度解決するためには──そして、戦略策定過程の周りにわたしたちがこれまで積み上げてきた人為的な複雑性と縁を切るためには──いくつかの基本的概念に立ち戻ることが必要である。とりわけもっとも基本的なのは、思考と行為の間の緊密なつながりである。そのことこそが工芸の、したがってまた戦略の工芸制作の神秘を解く鍵である。