ブルデュー『科学の科学』第3章「社会科学はなぜ自己を対象化しなければならないのか」2

「社会空間」に相当するものをもたないエスノメソドロジストに、十全な社会学的反省はできないよ。

 したがって、対象化する主体を対象化することを科学的対象化の前提条件とするということは、(ガーフィンケルの例におけるように)

  • 対象化の科学的処方法を科学研究に適用する

ということに留まりません。それはまた、構築作業の社会的可能条件、すなわち、

  • 社会学的構築 と この構築の主体 との社会的諸条件を科学的に解明すること

でもあります。エスノメソドロジストたちがこの第二の継起を忘れているのは偶然ではありません。彼らは、

  • 社会は構築されるものである

ことを指摘しますが、

  • 構築者自身が社会的構築される

のであること、そして、

  • 彼らのおこなう構築は科学が構築すべき客観的な社会空間における彼らの位置と相関している

ことを忘れているからです。


 まとめになりますが、対象化すべきもの、それは、認識主体の体験ではありません。

  • 認識主体の体験の(特に対象化行為の)社会的可能条件──つまり、その体験(行為)の効果と限界──

です。

  • 掌握すべきもの、それは、対象との主観的関係です(この関係が制御されず、それが、対象、方法などの選択を方向付ける場合には、誤りのもっとも強力な要因となります)。
  • 掌握すべきもの、それはまた、対象との主観的関係を作り出す社会的条件です。専門科学と専門家(民俗学者社会学者、あるいは歴史学者)を作った、そして、専門家が自分の科学的研究活動に投入する無意識な人間学を作った社会です。


 対象化する主体を対象化する作業は、三つのレベルで行われなければなりません。まず、

  • 社会空間総体における対象化する主体の位置を対象化しなければなりません。彼の出自の位置と軌跡、彼の社会的・宗教的帰属と選択(...)です。
  • 次に、専門家の界において占める位置(また、この界、この専門が社会科学の界において占める位置)を対象化しなければなりません。それぞれの学問は、国別の独自の伝統と特色、避けて通れない独自の問題系、独自の志向習慣、共有された独自の信条と自明事項、独自の儀礼と聖別の仕方、研究成果の好評に置ける独自の拘束、独自の検閲を持っています。それぞれの専門科学の集合的歴史に刻み込まれている前提の総体(アカデミックな無意識)を対象化しなければならないことはいうまでもありません。
  • 第三に、幻想の不在という幻想、純粋な、絶対的な、「利害を超えた」視点という幻想に特別な注意を払いつつ、スコラ的世界への帰属と関連するすべての事柄を対象化しなければなりません。知識人の社会学は、利害の超越に対する利害という特殊な利害関係を発見させてくれます(...)。 [p.218-219]

これは素敵に古い知識社会学ですね。