ブルデュー『科学の科学』第3章「社会科学はなぜ自己を対象化しなければならないのか」

ISBN:9784894347625

1. 対象化する主体を対象化する

  • ナルシス的反省性と改良主義的反省性
  • 認識論的慎重さの効果

2. 自己分析のための素描

1. がエスノメソドロジーの批判。2. は昔話。

1.「対象化する主体を対象化する」

ナルシス的反省性と改良主義的反省性

〈ナルシス的反省性/改良主義的反省性〉|〈わるもん/ええもん〉、です。

引用文中の符番は引用者による。

【1】[...] エスノメソドロジストたちが実践している反省性は 科学的研究活動をよりよく認識するのに寄与してはいますが、わたくしは 敢えて これを ナルシス的反省性のカテゴリーに数え入れています。彼らの説く反省性は、社会科学の既成の形態に対するラディカルな批判として登場することによって 身にまとった根底性の外見から その特別の魅力を引き出している、と考えるからです。

  1. さまざまな「コーディング・ゲーム」〔coding games〕の論理を明らかにしようとして、ガーフィンケルとサックス[Garfinkel and Sacks, 1986*]は、ある精神病院の患者たちのカルテを標準化された指示にしたがってコード化する作業をまかされた二人の学生を観察しました。
  2. カルテの内容とコーディング表とを適合させるために学生たちが採用した「アド・ホックな注記」、特に「エトセテラ」〔etc〕、「まあよし」〔let it pass〕、「ただし」〔unless〕といった修辞的用語を再点検しました。
  3. そして、学生たちがこれらの調整を行うために、自分たちが働いている病院についての(また、もっと広く、一般社会についての)知識を利用していることを指摘しました。
  4. 科学的研究作業は、記述的ないし確認的であるよりは、構成的である、というのが彼らの引き出した結論です(これは科学性を掲げる社会科学の自負に異議をはさむことに ほかなりません)。[p.209]

間にアジを一段落。
次から批判と自分語りへ: 「ブルデューにはできて、 EM には できていない・足りないもの」について;

【3】 しかしながら、科学的研究活動のルーチン的作業の諸含意と諸前提との分析が、これらの条件に無知な研究者がそれと知らずに自分の研究の内に持ち込む、そして、彼の知らぬ間に、つまり彼に代わって、科学の対象の構成のような もっとも固有の意味で科学的な作業をやってしまう思考形態の社会的可能条件と限界とについての真の意味での(カント的な意味での)批判として引き継がれるのでなければ、今述べたような実践的反省性は、その効能を十全に発揮することはできません。ですから、

  • たとえば、コーディングの作業を 真の意味で社会学的に検討しようとするなら、
  • コーディングする者(データのコーディングを任された学生、あるいはコーディングの枠組みを作成した者)が適用する分類を対象化する努力をしなければなりません。

これらの分類は、

  • わたくしが フランス世論研究所〔IFOP〕の政治家に関する質問表(『ディスタンクシオン』[Bourdieu, 1979]の付論で分析してあります)のなかに発見した分類のように、共通の人間学的無意識 に属している可能性があります。
  • あるいはまた、自分の採点と順位づけを正当化するためにある教員が作った判断基準から わたくしが導きだした「教員的悟性の諸範疇」のように、学校的無意識 に属している可能性があります。

いずれの場合も、それらの 社会的産出条件 に関連づけることができる分類です。[p.210-211]

このへん↑は まだ「お題目」レベルの おはなし。
おはなしは まだまだ、1節最後まで ずーっと続きます。