工藤庸子『フランス恋愛小説論』>『クレーヴの奥方』

クレーヴの奥方』を読んでみて、すこし戸惑いを感じてこんな「ごく素朴な疑問」を書いてみたわけだが。

えとね。いろんな意味でおもしろかったんだけどさ。
ちょっとこまってしまったことには、「近代的心理小説の嚆矢」とされるらしいこの小説ですが、どのへんが「心理」の描写になってるのかがわからなかったんだな(,,゜Д゜).....。

たとえばこういう↓箇所。もちろん、心的述語が使われている、という意味では「心理の描写」と言ったってかまわないけれど、これを「心理の-内的な-描写/分析」と見ることは難しい(工藤下掲書における引用からの引用)。


しかし、どうしてもひとこと話しかけたい欲望と、いま目撃したことのあたえてくれる希望にはげまされて、前へすこし歩みよった。その拍子に平静を失っている公の肩掛けが窓のふちにからみついた。音がしたので奥方はふりむいた。奥方の頭が公のことでいっぱいだったのか、それとも見わけのつくほどあたりが明るかったのか、とにかく公だということがわかった。もう一刻のちゅうちょもしないで、ふりかえりもせず奥方は侍女たちのいる部屋へはいって行った。奥方のようすはもうただのようではないので、それをかくすために気分が悪いといっておかなければならなかった。召使いたちの気をよそにやらないでヌムール公に出て行く暇をあたえるためにもそういったのである。しかしすこし落着いてみると、まちがいではなかったかという気もした。ヌムール公だと思ったのは想像のせいかもしれないのである。あの人はシャンボールに行っているはずだし、第一そんなむこうみずなことをいくらなんでもしそうでない。もう一度居間へかえって庭にだれかいるか確かめたい気がいく度もした。おそらくは、心配していると同じ程度に、ヌムール公であればいいと思うのであったろう。しかし、理性とつつしみがほかの気持にうちかって、どちらかわからないままにしておき、それが明らかになるのは偶然にまかしたほうがいいという考えに落ちついた。あるいは公がすぐそばにいるかもしれぬと思う場所をこのまま出て行く決心がなかなかつかなかった。奥方が母屋へかえったのはもう夜明けごろであった。

この記述は──EM者ならこう言うでしょうが──「公的な」領野で動いているようにみえるし、言い換えるとこれは、「心的なもの」に対して──ルーマニ屋であればこう言うでしょうが──「外的に」言及しているようにみえるわけです。
‥‥とまぁ、そんなことを思っていたら、

にて、著者さんの曰く:

 ほとんど紋切り型のように「明断な心理分析」などと形容される作品でありますが、この断章からクレーヴの奥方の内面の出来事を確定することができるでしょうか。フランス語の原典のほうがニュアンスは微妙で、「とにかく公だということがわかった」というところも「公の姿をたしかに認めたと思った」と訳したほうが正確かもしれません。奥方は安全圏にしりぞいて、まずヌムール公に「暇をあたえ」ますが、盗まれた肖像のエピソードと同じことで、これが醜聞をさけるための理性的行動なのか、公をかばいたいという女心からとっさに嘘をついたのか、判断することはむずかしい。奥方はそこで一息ついて、やはり自分の思い違いであったかと迷います。だからといって庭をのぞいて確認したりするのは、いかにもはしたない。こうして五分五分の可能性をいつくしむように、奥方は去りがたい空間で夜明けまでをすごすというのです。
 ここで分析的な思考を展開し、奥方の頭が公のことでいっぱいだったせいか、それともあたりが明るかったせいか、などと推論しているのは、いったいだれなのか。おそらくは語り手であって、当事者ではないでしょう。奥方は内心ヌムール公がそこにいることを望んでいるのではないか、おそらくそうだろうと推察しているのも本人ではないはずです。つまり、作中人物の内面は決定的に不透明なままであり、そのまわりを一見明晰な分析用語が徘徊しているだけではないかと思うのです。たしかなのは奥方自身が、あえて曖昧さをえらんでいるという事実です。この不透明な奥行きに、謎めいた情念を隠蔽するロマネスクな空問を見てとることができましょう。(p.17)