てことで3にもどる。
私の初発の素朴な問いは「フーコーはアナールから何を受け継ぎ、またどんな点で距離を取ろうとしたのか」だった。
ところでいま気がついたが、この図には偉大なるアメリカ社会学の父・我らが親愛なるタルコット・パーソンズ師が載ってないな.....
- 66「ミシェル・フーコー、近著を語る」(1969)
- 実際、今日歴史家の人々、もちろん私はアナール学派のことを考えているのですが、マルク・プロック、リュシアン・フェーブル、フェルナン・ブローデルといった人々は、歴史学において通常行われている時代区分を拡張しようと試みました。諸観念の歴史、諸科学の歴史を研究する人々は、かつてはとりわけ理性の連続的な進歩、合理主義の漸進的な到来といった観点から語っていたのですが、現在彼らは、不連続性や断層を強調しています。私は、いわゆる歴史家の人々が連続性を抽出している一方で、思想史家の人々は不連続性を明るみに出しているという、こうしたパラドクスから出発しました。これら二つの方向はしかし、歴史一般についての同一の方法的再考によってもたらされた、シンメトリカルで逆向きの二つの効果であると私は考えます。[p.199]
この話自体は非常にわかりやすい:
- アナール:連続性[=長期持続]
- エピステモロジー:被連続性[=認識論的切断]
の双方を尊重しようとすると生じるパラドクスが フーコーの出発点になっている、と。
** これまた(あくまで) フ ラ ン ス の 超 越 論 である
『知の考古学』出版後におこなわれたこの↑インタビューを、出版(1969)前年に書かれた
- 59「科学の考古学について:<認識論サークル>への回答」(1968)
と比べてみると、次の↓箇所が、上記の箇所↑を敷衍したものだと読める:
非連続性の歴史
奇妙な交叉が存在している。ここ数十年来、歴史家たちの注意は好んで長い時代区分の方へと向かってきた。あたかも、それらの歴史家たちは、政治的な出来事やそれをめぐる様々な逸話の下に、安定的で崩れにくい諸均衡、知らず知らずのうちに進行する諸々のプロセス、たえず機能している規制、何世紀も経て頂点に達して逆転するにいたる傾向の諸現象、蓄積の動きやゆっくりとした飽和化、歴史についての伝統的な語り方が様々な出来事の分厚い層で覆ってしまった、不動で沈黙した歴史の大きな土台など、を明るみにだそうと企てているようなのだ。そうした分析をおこなうために、歴史家たちは、経済成長のモデルだとか、交換の流れや発展の利潤や人口衰退の定量分析だとか、気候の変動の研究だとかといった、一部は自分たちが拵え上げ、他の部分は受け継いだ諸道具*を使用している。こうした道具を使用することで、歴史のフィールドにおいて、かれらは様々に異なった沈殿層を区別することができるようになった。それまで研究の対象とされてきたリニアな継起交替に対して、深層において相互にずれあい折り重なった関係の総体が置き換わることになったのだ。政治的可動性から「物質文明」に固有なゆっくりとした変化にいたるまで**、分析のレヴェルは多様化した。それぞれのレヴェルは自らに固有な諸々の断絶をもち、より深い層へと降りていくにつれて、区切れ幅は次第に大きなものとなっていく。(非連続的な諸事件のあいだにどのような関係を打ち立てるかという)歴史の古い問いは、これ以後、次のような、一連の難しい問いかけに取って代わられることになる。すなわち、どのような層をどのような他の層と区別すべきなのか、それら諸層のそれぞれに対してどのようなタイプの時代区分とその基準を採用すべきなのか、ひとつの層と別の層との間に、どのような関係性のシステム(序列関係、支配関係、階層化、一次的決定、円環した因果関係など)を記述すればよいのか、といった一連の問いのことだ。[p.101(5901)]
ところが、ほぼ同じこの時期、思想の歴史、科学史、哲学史、思考の歴史、さらには文学史(それらの固有性についてはひとまず措くとして)とひとが呼ぶ諸領域、つまり、その名称にもかかわらず、多くは歴史家の仕事とその方法を逃れているとされるそれらの学問領域においては、ひとびとの注意は逆に、「時代」や「世紀」といった大きな単位から、断絶の諸現象へと向かうことになった。思考の広大な連続性や、精神の集合的で均質な諸表現、あるいはまた、その始まりから自らをなんとか存在させ完成させようと躍起になる一科学の執拗な生成運動などの下に、いまではひとびとは諸々の断絶の出来事をこそ探そうとしているのだ。
G・バシュラールは認識の無際限の集積に断絶をもたらす認識論的な閾という考えを提示したし、M・ゲルーは、哲学的言説の空間を区切り分けている閉じられたシステム、閉じられた概念構築体を記述した。G・カンギレムは、概念の有効範囲と使用規則における、変化、転移、変換を分析してみせた。文学の分析にいたっては、作品の──あるいは作品でさえもなくテクストの──内的構造こそを問うようになっている。[p.102]
続けてフーコーの曰く:
しかし以上のような交叉が幻想を引き起こすことがあってはならないのだ。外見上はそう見えるからといって、歴史的研究のある種の領域[〜エピステモロジー]は連続性から非連続性へと向かい、他の諸領域[〜アナール]──ほんらい歴史学そのものというべきもの──は雑多な非連続性の蝟集状態から、中断されることのない諸々の大きな統一的単位の研究へと向かったのだ、などと想像してはならないのである。じっさいは、非連続性の概念自体が在り方を変えたのである。
ここまではよい。問題はこの先。
「非連続性の概念自体が在り方を変えた」という点を敷衍し始めるところで、話が突然むつかしくなるw。