chap02(46)&[14]:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050102#p1
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- ティンダル、『文学の象徴』、曽田淑子訳、篠崎書林、1957、[目次]
William York Tindall, The literary symbol, Indiana University Press, 1955, ISBN:0253200075
- ティンダル、『文学の象徴』、曽田淑子訳、篠崎書林、1957、[目次]
昼食。第3章「最高の虚構」再訪。
「苦手分野」の書物は 50頁進むのに1.5時間とか平気でかかってしまう。キツいなぁ。
象徴詩の衰退とともに、象徴主義は散文(〜小説)に受け継がれる。
「偉大なる存在の連鎖」「存在の階梯」「万物照応correspondence」(以下略)などなどといった強力な前提〜ウルトラコンテクスト が解体*したあとでは、かつてはアレゴリーでありえた象徴たちは いまやそのような力を失う。が、とはいえ──それが「象徴」であるからには── correspondence であることを止めるわけではない。すると「象徴」は、
- 一つの「作品」のなかで、その「小説世界」に即して理解されるしかなくなるか、
- ほかの「作品」との関係のなかで理解される必要が生じるか、
といったことになる。(後者を──その昔には──「インターテクチュアリティ」などと呼んだ人たちもいた。)
さらにまたここからは、当然かつ自明な帰結として:
一方で(象徴主義的な)小説は、読者に対して、
- 繰り返し読むこと
- 登場する「イメージ」(象徴)を──その小説を読み終わるまで──記憶にとどめておくこと
- 最終的にその「イメージ」(象徴)たちの明確な意味がハッキリしないままにとどまることは分かっていながら、にもかかわらずそれを探るよう取り組むこと
という 過酷なタスクを課すことになるが; 他方では──著者がそう書いているわけではないが──、多くの読者がそのようなコストを払うことを望むわきゃーないので どうしたって「ポピュラー」なものにはなり得ない、といった事態が生じるに違いない。
原因はなんであろうとも、詩に対する関心は衰えた:
[p.124-5]
小説を繰り返し読むこと:
[p.128-9]
「イメージ」のいくつかの役割。たとえば「イメージ」は、意識される前に経験を具現し、その実現の瞬間に備える:
[p.139]
コンラッドの書簡:
[p.154]
*1:©宮台、c鈴木 et al.