ised に行ってきた。

六本木ヒルズ


議論の運び自体は、

なにしろまずは、「ぉぃぉぃこのネタを〈公/私〉区別で扱っても楽しいことにはならんだろうよ」、という基本的な点で

黙って聞いているのがキツいところも多少あったのだが、司会の東氏の話芸は数時間座って見る価値があった。この人数(8人くらいだったか?)でシンポ的なことをやって、議論にある程度のオチが──キャッチーなキーフレーズ付きで──ちゃんとつく、というのはほとんど見たことがないよ。すごーい。

質疑応答時間に 自分も少し 話す側 に立ってみて──その要領を得ない話しっぷりに──自分の頭の悪さを痛烈に感じつつ 我がことながら気の毒に思ったことであった*。
* というようなことを 話をしている最中に考えていると ますます要領を得なくなるわけだ。


議論の中味についてはそのうち出ることになっている報告書のほうに任せるとして、私はピンポイントで白田さんに質問──というかリクエスト──をしたので、以下それについて少しメモ。


加野瀬さんの講演では、

おそらくは特にエントリ・ユーザに対する配慮として発言されたのだろうと私には思われたので、その線で、こう↓解釈したのだが、

【A】現状では、インターネットは「誰にでも見ることができる場所」になっているわけだが、そこで生じる問題*に対処するには、「見る人を限定できるような場所」を用意してあげればよい。(大意)

というような提案がなされていたと思う。

* 問題の具体的な内容については報告を待て。

そして、白田さんは これに対して、おおよそ、

【B】「繋がりの社会性」が「公的なもの」を駆逐していっている*1現状においては、「アクセスコントロール」は、その趨勢に拍車をかけるのではないか。それは如何なものか。(大意)

という発言をされた。


他方、その後議論は、最初の提起〔A〕から出発して、最終的に、

【C】「繋がり*の社会性」を求めている人たちにとって、アクセスコントロールは意味がない**。

* しかもそこで欲望されているのは、主として、特定の事柄・人について〈匿名で-「陰口」を言い合うことによって-繋がる-自由〉である。

というドラスティックなオチがつくところまで展開していったのだが、

ここの展開は面白かった。本日の見所だったと思う。
** どういう点で意味がないのか、については報告を待て。

それでは、〔C〕を踏まえたうえで再度〔B〕に立ち戻ってみると 白田さんの見解はどうなるのか、そこを敷衍してほしい、‥‥というのが私の出したリクエストだった。

が、要領を得なかったので会場にいた多くの人はわからんかったのではないかと思うw。すまん。


単独で

【D】「公的なもの」という言葉でもって──白田さん自身は──何を守りたいのか。(大意)

という問いを問うのは、

「公的なものとして、われわれはなにを守るべきか・作り上げていくべきか、またどうやったらそれを作り出せるのか・守れるのか」という問いについては、いくらでも抽象的な議論ができる(し、されてきた)、という意味で

退屈だが、〔B&C〕を踏まえると これには但し書きがついて、

【D'】「繋がりの社会性」(の自由*)を求める人たちが「公的なもの」を駆逐する趨勢にある中で、なにを-どうやって 守るべきか・作り上げていくべきか。

* 特定の事柄・人について〈匿名で-「陰口」を言い合うことによって-繋がる〉-自由

ということになる‥‥、というようなことを言いたかったのだが、うまく伝えられなかった(こちらの責任で)。


会が終わった後で少しだけ続けて白田さんと話をすることができたのだが──その時点でようやく上記の意図は(おそらく)伝わり──、その場ではとりあえず、

守るべきものは ここ↓ですかねぇ。(大意)

  公  私 
 開   
 閉  ここ  

というところに、二人で暫定的にオチをつけてみた、という次第。
だが、やはり〈公/私〉区別でこのネタを論じている限りは話は先にすすまないような気が──直感的には──するので、この図を別の区別で書き換える作業をやるべきなのだろうな(誰かが)、‥‥‥と思いつつ家路についた私なのであった。

*1:ここで白田さんは〈公衆/大衆〉という区別を参照していたかと思うが、これはいただけない、と思った。議論がオルテガ(っていうか下手すりゃ19世紀)に戻ってしまうよ*。
* 引用である(趣旨に賛同しつつ発言者を明記せずに引用させていただく)。
#20世紀中盤以降の社会学(の一部)には「大衆論」に対する反省も──ex.「〈大衆〉は言葉の上の存在である」((c) ルーマン『信頼』)──含まれていたわけであり...。このテの言葉遣いには簡単には同意できないわけである。