小野「ルーマンにおける「信頼」論の位置」

昼食前半。ひとさまに複写していただいた文献を俺がありがたく読むスレ。(略称なし)

  • 小野耕二、2006、「シリーズ ルーマンの政治理論2──ルーマンにおける「信頼」論の位置」、名古屋大学法政論集214号(2006年9号)、p.1-49
目次は昨日のエントリに:id:contractio:20061116

2周目。
べつにヘンことが書いてあるとかとは思わんのですが。読中読後に Why this now??? の感あり。


2回読んで思ったことのメモを書いてみるよ。


50ページ使って延々と祖述的解説文を連ねて得られた結論は、こんな感じ:

  • [1] ルーマンは「〈信頼〉は 〈諸制度〉の基盤だ」と言ってるよ。(大意)
  • [2] これは最近「社会関係資本-と-民主主義的制度」の関係について言われてることと同じだよ!(大意)

で、

  • [3] でも中期以降、──ルーマンの議論の焦点が「存続」から「作動」へと移動していくなかで──「信頼」論のウェイトは下がっていくよ。残念だね。(大意)
  • [4] だから我々は、展開されなかった「信頼」論の可能性を さらに追求しなければいけないよ。(大意)

と。うーむ....。


小野先生は、「最近めちゃめちゃホット(死語)な〈社会関係資本〉な話題を、ルーマンは3〜40年前に言ってたよ!」というのが嬉しいみたいなのですが、でもこれ、当時の──「現象学的」だと総称される*──社会学の事実上標準的流行ネタではあったわけでして。

たとえば google:"plausibility structure" の検索結果をみよ。>誰か
* したがってまた「局地的な」ともいえるわけですが。

ルーマンも やっぱり「みんながやってるネタ」を自分もしてみんとて してたわけですわなぁ。

他のひとたちがベタに現象学なタームを使って議論してたことを、ルーマンは ヘンな──というかシステム論の──言葉を使ってやってた、という違いはありますが。

それはそれでいいのですが、問題は──ルーマンだけじゃなくて──当時「信頼」論にコミットした その人たちのその後の動向ですよ。そいつを勘案してみると、「信頼」論の評価ってのは もっとずっと難しいことなんじゃないか、と私は思うのでした。


一方で。
小野先生は、中期〜後期の著作で、「信頼」というトピックが著作の前半にちょこっと登場するだけになってしまうことをもって「後退」を云々するわけですが、「どの著作にも たいてい その前半に〈信頼〉ネタが登場する」ということは、むしろこのトピックがルーマンにとって

主題的に論じるスペースが取れないときにすら、それに ちょこっとでも触れないわけにはいかないほどに

重要なものであり、しかも議論全体に対して 基礎的な 位置にあることをいみしているのだ、──と考えてみることは可能ですよね。‥‥まぁそれはそんなに重大な話ではありませんが。


他方で。
そもそも「信頼」という現象が注目されたのは──小野先生が論考中で指摘しているように──、「社会秩序は如何にして可能か」という問いに対して -「規範」や「共通価値」などを持ち出して-答えること- へのオルタナティヴとして、だったわけです。しかしこれは上述の「現象学的」と総称される諸派にほぼ共通の所作であり、これ自体は言わば議論の端緒に過ぎないものです。

論考の結論として小野さんが取り出しているのは、まさにその端緒的な-「よくある議論」の部分だと言えそうに思います。
ルーマン・オリジナル」な話ではない。
それはそれとして、

問題は、ルーマンもその一部であった「現象学的な」と総称される諸社会学派は、そうした端緒的議論を経由して、その後 それぞれどこに向かったか、ということです。

たとえば、ハロルド・ガーフィンケルの場合には、かなり きっぱりとした変化──「信頼」論的議論に対するきっぱりとした態度変更──があったようです。‥‥と、そんなようなことが この↓文献に書いてあったような気が....
記憶違いだったらすまん。>誰か
ところが、

ルーマンの場合には、それがそんなには はっきりしません。「変化」はおそらくあるのですが、しかしそれは──たとえばガーフィンケルに比べると──ずっと緩やかで漸次的であったようにみえます。

ともかくも/そんなわけで、「信頼」論の変遷には「現象学との付き合い方の変化」が関わっている という点は、ルーマンの議論の変化においても 見逃せないポイントなのですが、それがどういうものであり、そこにどんな意味があるのかについては、いまのところまだ、ほとんど議論されていないように思います。


で。
何がいいたいかというと。です。


政治学なひとが、このテ↑の話にどのくらい付き合ってくれるかというのは なかなか判断の難しいところでありましょう。それはいいのですが、ともかくもしかし、こういう↑事情があるのだ、と言うことまでは踏まえておかないと、「信頼論を更に展開しよう」というまさにその努力によって、議論は簡単に──端緒的「信頼論」の状況に、つまり──40年前の水準に 先祖帰りしちゃうかもねー、ということなのでした。

もっとも、この論文は「シリーズ」の2番目だそうですから、今後の議論の展開を見守るべきところなのかもしれませんけども。


昼食後半。某者にいただいたロールズ(娘)のレジュメ。


これ↓、ペーパーバックは出ないんですかねぇ。

Epistemology and Practice: Durkheim's The Elementary Forms of Religious Life

Epistemology and Practice: Durkheim's The Elementary Forms of Religious Life