昼食前半。ひとさまに複写していただいた文献を俺がありがたく読むスレ。(略称なし)
2周目。
べつにヘンことが書いてあるとかとは思わんのですが。読中読後に Why this now??? の感あり。
2回読んで思ったことのメモを書いてみるよ。
50ページ使って延々と祖述的解説文を連ねて得られた結論は、こんな感じ:
で、
- [3] でも中期以降、──ルーマンの議論の焦点が「存続」から「作動」へと移動していくなかで──「信頼」論のウェイトは下がっていくよ。残念だね。(大意)
- [4] だから我々は、展開されなかった「信頼」論の可能性を さらに追求しなければいけないよ。(大意)
と。うーむ....。
小野先生は、「最近めちゃめちゃホット(死語)な〈社会関係資本〉な話題を、ルーマンは3〜40年前に言ってたよ!」というのが嬉しいみたいなのですが、でもこれ、当時の──「現象学的」だと総称される*──社会学の事実上標準的流行ネタではあったわけでして。
* したがってまた「局地的な」ともいえるわけですが。
ルーマンも やっぱり「みんながやってるネタ」を自分もしてみんとて してたわけですわなぁ。
それはそれでいいのですが、問題は──ルーマンだけじゃなくて──当時「信頼」論にコミットした その人たちのその後の動向ですよ。そいつを勘案してみると、「信頼」論の評価ってのは もっとずっと難しいことなんじゃないか、と私は思うのでした。
一方で。
小野先生は、中期〜後期の著作で、「信頼」というトピックが著作の前半にちょこっと登場するだけになってしまうことをもって「後退」を云々するわけですが、「どの著作にも たいてい その前半に〈信頼〉ネタが登場する」ということは、むしろこのトピックがルーマンにとって
重要なものであり、しかも議論全体に対して 基礎的な 位置にあることをいみしているのだ、──と考えてみることは可能ですよね。‥‥まぁそれはそんなに重大な話ではありませんが。
他方で。
そもそも「信頼」という現象が注目されたのは──小野先生が論考中で指摘しているように──、「社会秩序は如何にして可能か」という問いに対して -「規範」や「共通価値」などを持ち出して-答えること- へのオルタナティヴとして、だったわけです。しかしこれは上述の「現象学的」と総称される諸派にほぼ共通の所作であり、これ自体は言わば議論の端緒に過ぎないものです。
問題は、ルーマンもその一部であった「現象学的な」と総称される諸社会学派は、そうした端緒的議論を経由して、その後 それぞれどこに向かったか、ということです。
- 中村和生、(2000)、「エスノメソドロジーをめぐる技法の変遷」、『社会学史研究』22、pp.113-129 isbn:4434003607
ルーマンの場合には、それがそんなには はっきりしません。「変化」はおそらくあるのですが、しかしそれは──たとえばガーフィンケルに比べると──ずっと緩やかで漸次的であったようにみえます。
で。
何がいいたいかというと。です。
政治学なひとが、このテ↑の話にどのくらい付き合ってくれるかというのは なかなか判断の難しいところでありましょう。それはいいのですが、ともかくもしかし、こういう↑事情があるのだ、と言うことまでは踏まえておかないと、「信頼論を更に展開しよう」というまさにその努力によって、議論は簡単に──端緒的「信頼論」の状況に、つまり──40年前の水準に 先祖帰りしちゃうかもねー、ということなのでした。
昼食後半。某者にいただいたロールズ(娘)のレジュメ。
これ↓、ペーパーバックは出ないんですかねぇ。
Epistemology and Practice: Durkheim's The Elementary Forms of Religious Life
- 作者: Anne Warfield Rawls
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
- 発売日: 2005/02/22
- メディア: ハードカバー
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