佐藤+北田 et al. 対談二発(その2)

上掲『論座』110-111頁。トッシキ発言:

  • [01] 明治以来の日本の学問は海外の権威と実学性、つまり「役立つ真理」であることをよりどころにしてきました。ところが最近は、海外にも権威らしい権威がいない。他方で、法律や経済、政治ではアカデミズムよりも現場に近い専門職集団(法曹界や官庁、政党の政策スタッフなど)ができてきた。その結果、アカデミックな社会科学は、権威も持ちにくいし、実学とも言いづらくなっている。それに対して、社会学はもともと社会全体がフィールドなので、特定の制度との密接な関係を持てなかった。さらに、自分自身も社会という対象の中にあるため、対象の外には原理的に立てない。社会学にはずっと、そういう「あやしさ」がつきまとってきました。
  • [02] つまり、今のアカデミックな社会科学全体が置かれている立場に、社会学は誕生以来、立たされてきた。進化論的に言えば「前適応」していた。全体に広がる前に、同じ状況が局所的にあって、それに適応していたわけです。こういうと必然的な展開に聞こえますが、戦前にウェーバー、戦後にルーマンという巨人が出現したという偶然は大きい。英語圏のギデンズや、ハーバーマス以降のフランクフルト学派も社会科学系はルーマンの影響が強い。そのせいで、日本でも「ルーマン化」が進んでいます。
  • [03] しかし、だからといって、社会学が他の社会科学と同じ道を進むとは思えない。他の社会科学は内部観察であると認めた上で、部分的な制度の学として自己を再定義できる。ルーマンヘの関心も、そうした再定義作業の一環でしょう。それに対して社会学は、全体性への視点をずっとどこかで持ち続けている。内部観察にもかかわらず全体性を見ざるをえない、しかも素朴な全体性は破綻ずみ、という恐ろしいジレンマですね。「社会学の呪い」と言いたいくらいです。そのなかで、いろいろな立ち位置の違いや切り口が出てきているのではないか。

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