佐藤+北田 et al. 対談二発(その1)──そして/あるいは 本日のDQA

の45頁にて。

  • 北田 [‥] 例えば宮台真司さんなどはよく「社会システム理論によれば……」と言いますね。僕もそれなりにルーマンを読み込んできた人間であるつもりなんですが、それでも「……」下の宮台さんの社会診断に同意できないことが少なくない。「社会システム理論によれば……」と言うのは、「一般相対性理論によれば……」と言うのとは違って、「……」の内容を強く限定・規定するものではありません。宮台さんの言う社会システム理論は、あくまで宮台さんの視点から構成されたメタファーとしての「社会システム理論」であって、何か統一された理論、原理のようなものではない。でもそうしたメタフォリカルな語り口以外の語り口があるのか、と言われるとないような気もするんですね。未完を宿命づけられた理論と言えるのではないか。
  • 佐藤 宮台さんが使うときには、宮台さん個人を離れて、あたかもそういう客観的な何かがあるように聞こえますね。統一見解みたいな感じで……。

言われていることは、宮台さんの本だけでなく、ルーマンの本(ちゃんと)読んだことのあるひとなら、たいていそう思っていただろうことの確認。なので、この↑二人

誰かが言った方がいいと誰もが思ってるかもしれないのだがあまり誰もいいたくないことを、ほかならぬこの二人があえて

言っている、というところに意義があるわけです。
それはまぁ「よかったよかった乙」という話。


ところでその北田先生でありますが。
しばしばこういう↓発言をしてくれてしまうわけであります。どうよこれ:

[‥] 以前は批評的言語が媒介になって他分野の院生と会話が成り立ちましたが、今は(互いの領域の)ディシプリンがしっかりしていて、アカデミズムの社会学オートポイエーシス(自立的)なシステムとして「純粋化」しています。これは基本的には健全なことだと思います。中途半端な形で「社会学的なもの」が弱毒化、希薄化された形で蔓延していくことに対する危機意識が、かつてなく職業社会学者の間に広がっているんですね。ただ──経済学なんかも似たような状況なんでしょうけれども──通常科学化と通俗化の二つの線分が全く交差せずに、反対方向に伸びていっている。法学や経済学等に比ぺて、使用する諸概念の再帰性が高いがゆえに「専門用語」「ディシプリン」を確定することが難しい社会学が、そういう二極化を是認していいものか、疑問に思います。[「社会学は進化し続ける」in『論座』(2006-1、朝日新聞社)]



以下、誰かが言った方がいいと思ってる人は少なくないかもしれないんだけどできれば俺以外の人が誰か言ってくれればいいのにと思いつつもしかしベタなことをあえて書きますが。


北田先生が、「オートポイエーシス」という言葉を、

というようなやりかたで使うことができてしまうというそのことは、同時にまた、北田先生には

という使い方が できてしまう、ということをも示唆しています。‥‥そういうつもり?


「そうだ」といわれたら私は頭を抱えますが、

「そんなわきゃない」とは信じてますけど、

他方、「流れで言っちゃっただけですよ」「冗談ですよ」とか言われても、やっぱり頭を抱えます。前者は問題外(の外)ですが、後者だって問題(外)。

  • まず、「いまのアカデミズムの社会学は純粋化している」といえば済むところに「オートポイエーシス」を入れ込んでみても、規定性はなんら増してないわけです。[=無駄]
  • それだけでなく、そのように、内実をともわない仕方で
    あえて「システム論の言葉で」言いかえれば、システム・リファレンスをともなわずに
    使われることによって、この言葉は「メタファー」と化してしまい、[=間違った語用]
  • そしてそれによって、この言葉は、記述的な使用に耐えないものへと貶められてしまうわけです。[=有害]
    しかし これだけならまだいい。
  • メタフォリカル/アナロジカルな仕方で使ってしまうと、
    北田先生は、ひょっとするとすでに、別の様々な事情によって、「オートポイエーシスという語は 社会学における記述的な使用には耐えないものになってしまっている」と判断しているのかも知れません(たとえば 私自身はそう考えています)。 しかし、もしそうなら、単に使わずにすませばよいわけで(たとえば 私自身は使いません)
     にもかかわらず──あるいは「そうであるがゆえに」かもしれませんし、さらにあるいは そうしたこととはまったく異なる事情によって なのかもしれませんがともかくも──使ってしまうと、
    さらに、そもそも この言葉でもって 狙われていた社会学的なプロジェクト*のほうも いっしょに見失わせることになってしまいます。[=凶悪]
    それは──そしてそれこそが──、たいへん困ったことだと私は思うのですよ。



この↑類いの発言は、これまでもたまに見かけましたけど、「流れで言ってんのかなぁ、まぁいいか」と思い、あまり気にしてませんでした。けど今回の↑をみて──そして宮台さんへの批判もみて──、「ひょっとしたらそうでもないのかなぁ」と(ちょっとだけ)気になってしまったので、以上「あえて」ベタに苦言を呈してみた次第。


とは書いてみたけれど。「でもそうしたメタフォリカルな語り口以外の語り口があるのか、と言われるとないような気もする」という発言も考えあわせてみると、ひょっとすると/やはり、そもそも「プロジェクト」についての見解が異なるのかもしれないですが。

[以下、他閲覧者のための不親切な注釈]
* 「要素とそのネットワークが構成的な関係にあること**」を、要素に即して 記述的に取り出すこと。
「内的閉鎖性」とか「自律性」とかいった形容は、この「構成的関係」に与えられた「表現」──or コロラリ──なわけで、それはまたたとえば、「固有性」とか「haecceitas (thisness)」とか(お望みであれば他になんとでも、以下略)いった別の言葉でもって形容されてもよい。けれども、そうした形容=表現によって──そして、さらにそこからの 連想ゲーム的に-メタフォリカルな 使用によって──、そもそもの、「構成的関係を記述的に取り出す」というプロジェクト自体が見失われてしまったら、本末転倒。
** それが「システムである」ということ。
この構成的関係(or そうした構成的関係をもった存在者)をどう呼ぶか──(オートポイエティック・)システムと呼ぶのか、それとも他の名前***で呼ぶのか──ということそれ自体は観察者の恣意にまかされている。が、その構成的関係のほうは、観察者が勝手につくったものではない。
 →それが【ルーマンが謂ういみでの)「システム」は分析概念ではない】とか、【我々は「システムがある」というところからはじめる】といわれたりすることの意味。
分析概念(or モデル)ではないのだから、このやり方で「システム」という語を使うときは、「実際のrealシステム」──を特定しspecify、それ──についてrefer to 語るのでなければならない。
 →それが【リファレンス・システムを示せ】という、「システム論のお約束」(の一つ)の意味。
もちろんこの語をそれ以外のやりかたで使うことはできる。しかしその場合には、この語を ルーマンとは異なる仕方で使っているのだから──ルーマンの名を引き合いに出しさえしなければ──そこに上記の問題は生じない。
もっとも、当のルーマン先生その人が、しばしばこのやり方から逸脱している──ので読者が困る──という別の問題はあるが。
*** たとえば reflexivity と呼ぶのか、それとも formation と呼ぶのか、さらに他の言葉で呼ぶのか。それは多くのばあい──「単なる恣意」ではなく──伝統や習慣によって「決まっている」ようにみえるけど。


以上は枝葉末節。本題はこちら↓