いいぐあいにテンパってきたわけだが。
そんなときは振り出しにもどってみる。
日射で扱おうとしていた論点のいくつかは、長岡本でも扱われていた。時間的制約のゆえに 我々自身は涙を呑んで切り捨てた論点──たとえば「行為の事後成立説*」や「不確定性」の解釈 などなど──も、けっこうな紙幅を割いて議論されている。
6月に提出してある「報告要旨」に書いたうちのサブトピックひとつ**は、なんと 主張内容・論拠・参照しているルーマンのテクストまで含めて一致している。あははは。
* このあたりね:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20000301
**長岡本の(7)および(8)の部分[p.485-488]。 てことは、複数の論者がこのレベルで見解の一致をみる議論について、なぜいままで指摘がなかったのか、ということのほうが不思議だ ‥‥という話なのであります。
**長岡本の(7)および(8)の部分[p.485-488]。 てことは、複数の論者がこのレベルで見解の一致をみる議論について、なぜいままで指摘がなかったのか、ということのほうが不思議だ ‥‥という話なのであります。
てことで、そういうのは報告では「長岡本嫁」ということでショートカット。違うところに時間がつかえる。ありがたいことこのうえなし。

- 作者: 長岡克行
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2006/09/29
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なによりも罪深い内田本(『東大で俺様が社会学を学ぶ』isbn:4480062270)における 佐藤論文への──たいへんよろしくない──参照の仕方にも ちゃんとガツンとハンマーが振り下ろされていて 善哉善哉。
補論III ルーマンのシステム理論は「システムを不当前提している」か?
佐藤氏のこの批判は、日本の社会学者がルーマンの社会システム理論に対しておこなっている批判としては、最も根本的で最も強力な批判である。最も根本的というのは、システム概念が問題にされているからである。最も強力であるというのは、もしもこの批判があたっているとすれば、ルーマンの社会システム理論のすべてが根底から吹っ飛ぶことになるからである*。そのうえ、この批判は内田隆三『社会学を学ぶ』(‥)においても、何の留保もなしにそっくりそのままでルーマンの「システム論の問題点」として採用されている。[p.477]
内田氏は佐藤氏の諸前提をひとつたりとも問題視することなく、佐藤氏によるルーマン批判をおおむ返しに復唱している。[p.491]
どうよそれ。というまとめで。
* 佐藤論文が重要である理由として、我々としては ここに、佐藤論文が「経験的な学としての社会学に対するルーマン理論の貢献」を正面から問題にしたものであること を付け加えておこう。そしてこれは、我々にとっては 佐藤論文が重要であるもっとも大きな理由であるが、しかしまた 長岡本が──その全体を通して──論 及 し て い_な_い 問題でもある。この一点において、長岡の批判のあとでも 佐藤論文は価値を持ち続けると私はおもう。
もっとも、佐藤論考は「社会学にとってルーマン理論は?」から出発したはずなのに、いつの間にか「ルーマンにとって何が大事だったのか」という話にすり替わってしまっている感なきにしもあらず。それがこの論文のよくない点のひとつ。
当然のことながら 我々の報告はこの点を巡るものであるが、そこで、長岡本と論点は大きく被っていても、結論はおのずと異なってくる。そのコントラストが出せる点でも 長岡本の登場はありがたかった。