昼食中盤。
ひとさまから戴いた私訳を俺がありがたく拝読するスレ(略称なし)。
- Anne Warfierd Rawls, 1984, Interaction as a Resource for Epistemological Critique: a comparison of Goffman and Sartre, Sociological Theory II, pp.222-252
http://www2.fmg.uva.nl/emca/EMCAOBIB.htm
http://www.emca.net/bib-comp.html
■一読して思ったことのとりあえずのメモ
- ゴフマンのお仕事(の意味)に関するすっきりとしたまとめ。たいへん勉強になりました。(ご本人もこんなにスッキリしててくれたらありがたかったですねぇ...。)
- アン・ロールズのいくつかの論考を(ちょっとだけ)読んだときに気になったことは、彼女が自分の仕事を「エピステモロジー」という語で呼んでいること(の いみ)だった。タイトルにこの語が含まれているこの論文であれば、この言葉を重用する意味が分かるかとおもったのだが、やっぱり分からんもんは分からん。つーか説明する気ないの?
- デュルケームが自分の議論を「認識論的」な問題構成のもとで組み立てていた、というのはありそうなことである(isbn:4003421418 / isbn:4003421426)。しかし 1984年にロールズが「認識論の批判」を行わねばならない、と考えるのはなぜだろう? ‥‥それが私にはわからない。
- ロールズは、「デュルケームを新カント派に引きつけて理解するのはおかしい」(大意)とか、「そもそも社会学の議論を特定の哲学的立場に引き寄せて理解したり批判したりするのがおかしい」(大意)とか──それはそれでそれなりに ごもっともな──ことを言う。
- そして/ところが、「相互行為の場における意味の生成を経験的に観察する方法」の確立を社会学に対して要求するときに──なるほどそれはそれでそれなりに ごもっともな要求でありましょう──、その課題を「エピステモロジカル」と表現する。彼女にとっては、「意味生成を経験的に捉える」という課題*が、「エピステモロジカルなもの」であるらしい**。ここで どこか議論が飛んでいるように思われる。そうすることで、彼女は、上記の発言を自分で裏切ってしまっていないだろうか。
- あるいは。この言葉には、私の知らないなにか特別な使い方があるのだろうか。...そうかもしれないが...。
それとも「エピステモロジー」というからには、「エピステーメー」についての学だということか。ならばそこでは〈エピステーメー/ドクサ〉という区別が問題となっているはずだ。ロールズの議論はそうなっているだろうか。‥‥なっていない。
いったいどういうことか。この言葉──「エピステモロジー」──は、いったい何から区別されるものなのか。
** あるいは、それは単に「かつて認識論と呼ばれたたぐいの議論の批判」に役に立つということなのかもしれない。それならそれでいいのだが、「認識論の批判に役立つ議論であること」-と-「認識論的議論であること」とは違うだろう。彼女の議論では、それがごっちゃになっていないだろうか。
・・・というようなことが、研究の進展によって──ついでに──明らかになるとうれしいな、と思います(わかったら教えてください)。>誰か
※ご参考:
- 哲学事典【認識論epistemology】http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/epistemology.html
にんしきろん【認識論】《哲》〔(英) epistemology; (ドイツ) Erkenntnistheorie〕
いかにして真正な認識が成り立つかを、認識の起源・本質・方法・限界などについて研究する哲学の一部門。認識の起源に関しては合理論と経験論が、認識の対象に関しては観念論と実在論が対立する。知識論。
そんざいろん【存在論】〔(ドイツ) Ontologie〕
単に個々の事物(存在者)の特殊な性質ではなく、それらを存在させる存在そのものの意味や根本規定を研究する学問。アリストテレスの第一哲学以来、形而上学の基礎論であり、本体と現象との二元論に基づいて本体論ともいう。カントはウォルフ学派の存在論(本体論)を独断論として批判したが、現代では人間存在の分析を通じた新たな存在論の試み(ハイデッガー・サルトルなど)が再び起こっている。存在学。オントロギー。
認識論@Wikipedia
認識論(にんしきろん)は哲学の一部門。知識論とも呼ばれる。語源はギリシャ語の épistémê + logos 。真理や知識の性質・起源・範囲(人が理解できる限界など)について考察する。日本では認識の訳語からか、人・人間を考慮した場合を主に扱うが、本家のフランスでは日本で言う科学哲学とほぼ同義で用いられる。
特徴
認識論で扱われる問いには次のようなものがある。
- 人はどのようにして物事を正しく知ることができるのか。
- 人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのか。
- ある考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるか。
- 人間にとって不可知の領域はあるか。あるとしたら、どのような形で存在するのか。
ところでスーパー大辞林には「認識論的切断」が掲載されている件。
敢えて引き合いに出すなら(?) google:認識論の社会化 ですか(??)。
伊勢田さんの文章:http://www.wakate-forum.org/data/2005/resume1.php
認識論の社会化のあり方として少なくとも以下の三つのパターンが存在する。
- 第一に、認識主体の社会化、すなわち信念を持ったり推論を行ったりする主体そのものを個人から集団へと移すという考え方がある。
ギルバートの集団的信念についての研究などがこの分類に属することになるだろう。
- 第二に、認識論的判断対象の社会化という考え方もある。
これは、第一の考え方と違い、信念形成や推論は個人的レベルで行われることを認めつつ、その背景の社会的プロセスを認識論的判断の対象としようという考え方である。科学哲学の一分野として社会認識論が行われる際、多くはこの第二のカテゴリーに属する研究がなされており、拙著『認識論を社会化する』で主に取り上げたのも主にこのカテゴリーの研究である。
- 第三に、認識論的判断基準の社会化がある。
第二のタイプの社会化と第三のタイプの社会化の差は微妙であるが、物差しと物差しで測られる方のどちらを社会化するかという問題である。科学社会学で暗黙のうちに使われる合意主義的な認識論はこの第三の意味で認識論を社会化しているが、分析系認識論や科学哲学ではまだこの意味での社会化はあまり注目されていない。
【追記】2006/11/22
ひとつ書き忘れていた思いつき。
アン・ロールズのデュルケームについての関心は、メアリ・ダグラスのそれに近いかもしれないですね*。アン&メアリ あわせて勉強していただいて、議論を纏めて見せてくれると嬉しいなぁ♪(俺が
- メアリ・ダグラス著作一覧: http://www.sal.tohoku.ac.jp/~ito/bibmd.html