symbolish / diabolisch

夜食。

社会の経済

社会の経済

『社会の経済』は、経済的コミュニケーションを 貨幣に照準して 社会学的に記述しようとする著作である*。その観点から この著作における最も重要な概念をあげれば、〈象徴的/悪魔的〉というペアになるのではないかと思われる。

* これは自明な方針のようにみえるかもしれないが、そうでもない。実際、たとえばルーマンに依拠しながら 労働** を中心に据えようとする『貨幣論のルーマン―“社会の経済”講義』のような著作も存在する。そもそも──この著作の中心に位置する第7章冒頭でルーマンが述べているように──、取引を もっぱら「交換」として捉えるのであれば──したがって、貨幣をもっぱら「交換手段」として扱うのであれば──「貨幣についての独自の考察」は必要がない。(というのも、「交換理論」をつくっておいて、あとからそこに「便利な道具」として導入すればよいから)。
無駄に一般化すれば、「交換理論で済むならメディア論はいらない」ということ。
** 労働は、『社会の経済』のほうでは、稀少性という社会的パラドクスの歴史的な展開を扱った 第6章「稀少性」(およびその 前ふり としての第5章)に登場する。

〈象徴的/悪魔的〉は、「結びあわせ には 切り離し が伴われる」という、ルーマンの著作にはお馴染みのハイデガー的トピックの一例であるが、「Diabolon」初出の 最後から二番目の節から引用してみると──ここだけ読んでもなんのことだかわかりゃしないと思うけど──こんな感じ:

VI

 シンボルという概念の本来の意味を思い出すなら、コミュニケーション・メディアの理論の内部で貨幣批判が再定式化できる。シンボルは分離したものをひとつに結びあわせ、しかもその結果、融合つまり差異の解消が起こることなく、結びあわされる双方で共属性が認識できるようになる。[‥]

 [‥] たとえば交換関係においては、利害の相違 に加えて 相違の持続 が必要とされるが、それにもかかわらず、等価を仮定してそれら利害を収斂させることができなくてはならない。その場合の等価を与えるのが、収斂させられた意図を交換するという限定目的のためにはたらくシンボルである。[‥]

 けれどもここに、消えて久しいと思われるひとつの見方、すなわち Symbolon には同時に Diabolon がつきものである とする見方がある。差異の統一性は、区別されたものを 寄せあわせる方向へも 引き離す方向へも、繋げる事ができる。

人びとは(たとえば必要に迫られて)交換を余儀なくされたと考えるかもしれないし、無知から騙されて損をしたと感じるかもしれない。あるいは、自分が需要側の陥る窮地にいるのだと悟るかもしれない。需要側は、非対象的に配分された情報のもとにあって、供給された物が いわれるような質をもつかどうかを供給者側だけが知りうるということを知りうるのである[→google:アカロフのレモン]]。このような状況においては、収斂よりも乖離が意識される。──とはいえ、乖離はもちろん収斂のこころみを基礎にしてのみ出てくるのであるが。[p.259


ともかくもそんなわけなので、経済における包摂の問題も、この視角から語られる。『福祉国家』の議論

そこでは、「自分の利害を政治的に主題化する能力をもつ市民」というヴィジョンの虚構っぷりが──「政治の限界」として──話題になっていたわけだが

と比較されるべき箇所は、たとえばここ:

VII

 悪魔化の回避に努めるべしとする象徴的一般化への構造的要求は、18世紀になると 市民の自由および平等 の概念によって言いかえられた。この点は今日の条件下では説明を要するが、修正の必要はほどんとない。そのさい 市民 という概念は 自然人 の反対概念として使われているのであって、貴族 あるいは プロレタリアート の反対概念として使われているのではない。市民概念は、全体社会への包摂(参加および依存)の形式を──しかもそれを役割概念のかたちで──表している。この意味で人びとは「市民社会」について語ることができ、また 市民/市民社会のゼマンティク全体を用いて、社会に関する理解を 政治中心のものから経済中心のものへと 移行させる事ができたのである。

その場合、市民概念を規定する際は、家政社会(家族)ないし単純社会(夫/妻、親/子、主人/従僕)、貴族社会や社会主義社会などなどといったものには関連していない。

自由と平等について意味のある話をしようというのであれば、まず市民という言葉のこの使い方を復活させ、守らねばならない。なぜなら、そうしないと自由および平等の概念は、価値概念──それが果たしうる唯一の機能は、境遇に不平を訴えたい人びとに〔あつらえむきの〕言葉を供することである──と化してしまうからである。
 これらの[市民の自由と平等という]概念から出発すると、

  • [貧困] まず第一に、たんに 機会の平等が欠けている(‥)だけでなく、機会そのものが欠けている極端なケースに目を向けることができる。それはどんな悪条件でも精一杯働かざるをえないほどの貧困の場合にあてはまるが、要求を下げても仕事の見つかる可能性がない失業者にもあてはまり、今日ではこちらがより緊要な問題になっている。[‥]
  • [稀少性]
  • [競争]
  • [社会問題]  [p.261-262]

VIII

 [かつて]市民的-社会主義的理論は、市民概念を用いるか、全てのものが経済的価値の分け前にあずかるという要請をおくかして、全体社会への包摂を定式化したのであるが、[他方、こうした前提をとらない差異理論的アプローチにおいては]、経済システムのコード──つまり、合理性にしたがう 支払い/非支払い の関係──が それだけでもう包摂を引き起こすとは前提できない[‥]。全体社会への包摂を構造化するのはむしろ、象徴性と悪魔性の解きがたい一体性──それが貨幣の場合のように経済にあらわれようと、他の機能システムに現れようと──なのである。 [p.266]

冒頭の「象徴的一般化への構造的要求は」のところは、──直前の箇所をみればわかることだが──、「象徴的一般化については、構造的側面とゼマンティク的側面の、二つの観点から研究できるしすべきなのだが、まず前者のほうについていうと」、というほどのこと。