ウィンチ『社会科学の理念』

再読して思ったが、やっぱりこの本はどうも好きになれないなぁ。議論のほとんどに賛成できるのに、それでも教条主義的な感じがしてしまうのはどうしてだろう。

実証主義の時代」の只中で・四面楚歌状況で書かれたから、なのだろうか。
でも、それなら初期ルーマンの議論だって同じなんだよな。でもルーマンの議論からは、こういう↓臭みは感じられない。
と書いてみて気がついたが、この臭みはアドルノのにちょっと似てるかもね!
社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究

社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究

The Idea of a Social Science and Its Relation to Philosophy (Routledge Classics)

The Idea of a Social Science and Its Relation to Philosophy (Routledge Classics)

ISBN:0415054311

さすがにこれは Google/Questia ともに置いてある:


■第二版への前書き:「説明」は「理解」の唯一の道ではありません。

The central core of the argument is really stated in Chapter III, Sections 5 and 6. The title of Section 6 is ‘Understanding Social Institutions’. It is important that I use the word ‘understanding’ at this crucial juncture rather than ‘explaining’. In saying this I do not mean now to allude to the distinction made by Max Weber between ‘causal explanation’ and ‘interpretive understanding’ (discussed in Chapter IV, Section 3). The point I have in mind is a rather different one. Methodologists and philosophers of science commonly approach their subject by asking what is the character of the explanations offered in the science under consideration. Now of course explanations are closely connected with understanding. Understanding is the goal of explanation and the end-product of successful explanation. But of course it does not follow that there is understanding only where there has been explanation; neither is this in fact true. I expect everyone would accept this. [p.x]



科学、芸術、宗教および哲学はすべて事物を 理解可能intelligible にすることに携わっている、と述べることは、フットボール、チェス、ペイシェンス、縄跳びはすべてゲームである、と述べることとまったく同様に意味がある。だがこれらの活動はすべて(我々がもっと利巧ならば理解できるはずの)一つの「超ゲーム」に含まれる、と述べることがばかげているように、それらの研究活動の結果を集めれば、現実についての一つの包括理論になるなどと考えることは馬鹿げたことなのである。[p.24]



ポパー主義について

まぁあたりまえのこと言ってますが...

 人間はその行為を通じて、命題が相互にもつ関係とまったく同種の関係を多大に対して持つことができる、という考えに抵抗を感じる人がいるとすれば、おそらくその理由は、彼が命題間の論理的関係について誤った考えをもっていることにある。彼は、論理の法則とは何か 既定の 固定した構造をもつものであり、我々は現実の言語活動や社会的交渉において我々が述べることをそれに一致させるべく──その結果多少の(決して完全にではない)成功を収めるが──努めているのだと考えているのである。[..] 社会関係は命題間の論理的関係のようなものであるということは、命題間の論理的関係自体が人々の社会関係に依存していることを理解するなら、さほど奇妙なことではないはずである。
 私がこれまで述べてきたことは、もちろん、カール・ポパーの「方法論的個人主義公準」と対立するものであるし、またそれは、彼が「方法論的本質主義」と呼ぶ過ちを犯しているようにも見える。ポパーは、社会科学の理論とは、ある種の経験を説明するために研究者が構成した理論的構成物──つまりモデル──に対してあてはまるものである と主張し、この方法を、彼ははっきりと自然科学における理論的モデルの構成になぞらえているのである。

 モデルがこのように[誤って]使用されていることは、方法論的本質主義の主張を説明すると同時に、それを無効にしてしまう...... 説明するというのは、モデルが抽象的理論的性格のものであることから、我々は観察可能な変化するもろもろの事象の内に、またはその背後に、モデルを一種の幽霊、つまり本質、として見ているように思いがちだからであり、また無効にしてしまうという意味は、我々の任務とは、社会学的モデルを記述的あるいは唯名論的方法で、すなわち、個々人に即した 彼らの態度、期待、関係等の見地から、注意深く分析することにあるからである。この公準を「方法論的個人主義」と呼ぶことができよう。[『歴史主義の貧困―社会科学の方法と実践』]

 社会制度とは社会科学者がその研究に役立てるべく構成した説明のためのモデルに過ぎない、というポパーの言明は、あきらかに誤っている。諸々の制度が内包している思考様式は、社会科学者が研究している諸々の社会において、実際に人々の行動様式を支配しているのである。たとえば、ポパーがあげた一例である戦争という観念は、ただ単に複数の社会の武力闘争という事実を 説明 するために発明されたものではない。それは、互いに構想している社会のメンバーに、彼らがとるべき行動の基準を与えている観念なのである。私の国が戦争しているならば、私がしなければならない──または、してはならない──しかるべき事々が存在する。いうなれば私の行動は、私が交戦国のメンバーとしての自分についてもつ概念に支配されているのである。戦争という概念は 本質的に 私の行動に属している。だが、重力という概念は落下するりんごの運動にこれと同じ仕方で属しているわけではない。それはむしろ、りんごの運動についての物理学者の 説明 に属しているのである。これを理解することは──ポパーには悪いが──現象の背後に幽霊の存在を信じることとは何の関係もない。それどころか、個々人の態度や期待や関係に入り込んでいる諸々の概念を考えることなくこれらの態度等々を正しく理解することはできないし、またこれら態度等々の意味は、いかなる個人の行為によっても決して説明されるものではないのである。[p.154-157]

そういえば、キング・カズって絵に描いたように見事なポペリアンですな。立派です。

まぁ ウィンチのこうした↑批判に対して(まで)ならば、〈一次理論/二次理論〉という区別でもって一応対応ができそうですが。

とはいえ、それじゃ足りないから「理念的実在」のような奇怪な観念が要請されもしたのでしょうが。