ニクラス・ルーマン『信頼』

引っ越しして大量の本を捨てた。で、これが出てきた。

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム

ひさびさにちらっと読んだけど、難しいねこれ。
こちら↓の話についても、そのうち続きを書かないとなぁ:


前書きでは、日常的・道徳的概念に対して社会学的分析はどのような態度を取るべきか、ということについて、とってもいいことを言っている。
でも、それを実行に移そうとするときにルーマンは、「複雑性」という、およそ身分のはっきりしない*概念に訴えてしまうので、本論が始まると途端に 酔っぱらいの語りのように不分明な議論が延々と繰り広げられることになる。これは、のちの『社会構造とゼマンティク』シリーズ**に至るまで ずっと繰り返されることになる、ルーマン理論のもっとも目立つ欠点である。

* 「複雑性」は、説明概念でも記述概念でもない***、と言われる。 ならば、それにふさわしい語り方が模索されてよいはずだ。──そう期待して読み進めると、読者は見事に肩すかしを食らわされる。というのも実際に我々が目にするのは、この概念が いとも簡単に「説明」のために使われている姿なのである。さらにいえば、もしもそうした使われ方が「頽落した」ものだというなら、そうではないやり方でのシステム記述がどこかに存在していてくれないと困る。でもそれは、存在しない。
だってルーマン自身はそれでいいと思ってるんだからね!
** この企画のほうでは、「複雑性」は、「分化構造」と「ゼマンティク」とを「媒介」する位置に置かれているのだから、おのずと・そして必然的に、そうならざるを得ない。そしてこの理由でもって、このプロジェクトは 初めから失敗を運命づけられている、と私は思う。 ちなみにこのシリーズは、「学者生活総決算」シリーズなので、「上記の難点は最後まで繰り返された」ということである。
*** 公式的には、探索的に研究を進めるための概念、である。学史上に類似物を探せば「感受性概念」とかいうことになるのかもしれないが、こんなことを言ってみてもなにも明らかにはならないのでちっとも嬉しくはない。


当然ながら、ルーマン自身は そうは考えていない。「複雑性」概念を、記述の中で・議論展開の駒として駆動させるための レトリック=解決策 として、進化論──「変異・選択・再安定化」というモードに訴えた記述様式──逃げ道解決策になる、と考えているのである。

この事情は、『信頼』においても『社会構造とゼマンティク』シリーズにおいても同じ。


でもそんなことはあり得ない。
得体の知れない概念を得体の知れないやり方で「解こう」とする前に、そもそも得体の知れない概念を使わずに問題を立てないといけません。