対象と観念の相互作用

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20080122#p3
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20080113


「第一歩目」の第1章における まとめ。

相互作用

 さて、対象と観念が、場合によって、いかにして相互作用を及ぼしあうかを、いくつかの例に則して われわれは見てきた。

例えば「子供のテレビ視聴者」という観念と、子供のテレビ視聴者のあいだの関係がそうだった。

このように、人間を分類する仕方が、分類される当の人間と相互作用を及ぼしあうのである。それでは なぜそのような相互作用が起こるのか。それにはありとあらゆる理由がある。

  • 第一に、一定の 種kind として分類されることで、人々はおそらく、自分自身をその種の人間とみなすようになる。もちろん一方で、その分類を拒否することもありうるだろう。
  • 第二に、我々のすべての行為は 一定の仕方で記述される、というのもまた事実である(←)。すると、我々が選びうる行為は、記述という純然たる形式的な側面に関しては、われわれの手に入る記述の仕方、すなわち観念に依存していることになる。
  • 第三に、分類というのは、単に言葉の上だけの操作ではなく、さまざまな制度、しきたり、さらには他の事物や人々との実質的な相互作用の中で遂行される作業なのである。
例えば、女性難民[という人間の種類]は、単に人間の種類の一つにとどまるものではない。それは一つの法的実体であり、さらに重要なことには、各種委員会、学校組織、ソーシャルワーカー、支援活動か、さらには難民本人といった法律の素人がしばしば口にする、いわば疑似専門用語としての「法的実体」なのであり、一人前の弁護士の手を煩わせるような対象というより、せいぜい弁護士の助手がお相手をするような対象なのである。

そしてこのようなマトリックスの中においてのみ、人間の「種類kind」と、その種類に分類されかねない人間との間に、笑って済ませられない深刻な相互作用が発生するのである。[p.72-73]

何が社会的に構成されるのか

何が社会的に構成されるのか

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