パトナム『事実/価値二分法の崩壊』

再訪。ぱらぱらと。2002年刊行

存在論なき実在論」てすごいキャッチコピーだな。そうまでして言いたいか実在論
事実/価値二分法の崩壊 (叢書・ウニベルシタス)

事実/価値二分法の崩壊 (叢書・ウニベルシタス)

The Collapse of the Fact/Value Dichotomy and Other Essays

The Collapse of the Fact/Value Dichotomy and Other Essays

第I部 事実/価値二分法の崩壊

第II部 合理性と価値

  • センの「命令主義的」出発点
  • 選好の合理性について
  • 価値はつくられるのか発見されるのか
  • 価値と規範
  • 科学哲学者たちの価値からの逃避

あとでまた読む。


■目下の関心とは関係ない話。

パットナム曰く、「アイン・ランドのようなひとは、討議倫理の規範をすべて遵守しながらそれを破壊する──マニピュレーションに変えてしまう──ことができるだろう」(大意)、と。ごもっとも。

ハーバーマス自身の政治哲学的プロジェクトにとって、「価値についての社会学主義」と称してよいような立場に譲歩することが──価値の論争を、よりよき理由が何処にあるかに関して決着を求める合理的対立としてではなく、基本的には、取り除かれるべき単なる社会的紛争として(...)取り扱うことが──いかに致命的であるかを理解しうるのは、われわれがまさに討議倫理学にとって不可欠なものをよく認識することによってである。[p.153]

どんな「社会学」だそりゃ(苦笑
それはさておき、ハバーマスのどこが間違っているか:

アーペルの立場の核心は、パースに倣って、真理を、限りなく続く議論(...)の極限において合意されるであろうことと同一視する、というものである。アーペルの重要な一歩は、この同一視を倫理的主張にも拡張すること、それどころかすべての言説に拡張することである。[p.154]

...という方針に依拠しているところ。


つーか。なぜパットナムが、この場所で、こんなにも頁数を費やしてアーペルやらハバーマスやらについてくどくど検討しなければならないと──検討する価値があると──考えているのか、というのが謎。

「ひとつ症例をみせよう」ということなのだろうけれども。

だって、そのあげくに手に入るのは こんな見解でしかないのだ:

もし彼とアーペルが討議倫理学を指示するために述べたもっと野心的な主張を擁護するつもりなのであれば、

  • その主張を信ずべき理由が存在しないか
    • (もし「討議倫理学」理性を特徴づけるつもりの確定した一組の規範に限定されるならば、事実存在しないであろう)、
  • その主張が空虚であるか

のいずれかである。というのは、もし

  • 倫理的討議における正しい判断とは理想的な発話状況で到達される判断だ

という主張が、

  • 討議参加者がもし理想的なかたちで道徳的に敏感で、想像力に富み、公平であり、等々ならば、彼らは正しい判断に到達する、

ということを意味するのだとすれば、その主張は純粋に「文法的」な主張だからである。[p.162-163]

信者以外はそう思ってるだろJK。