毛利(2006)「リスク社会における科学評価のための法制度設計をめぐって」

100ページあるよ〜(わーい

はじめに

一 リスクアナリシスとリスクマネージメント ― 事実の次元に重点をおいたアプローチ

  • 1 古典的形態
  • 2 社会性の次元も考慮にいれたアプローチ
  • 3 リスクの概念とリスク対策の戦略

二 政策過程におけるリスク論議の位置と形態 ― 社会性の次元に重点を置いたアプローチ

  • 1 政治文化によるスタイルの多様性
  • 2 新しい傾向 ― 参加的技術評価手続
    • (一)問題設定と分析枠組
    • (二)参加手続の諸類型
    • (三)参加手続の比較
    • (四)代表民主主義の文脈における参加手続
  • 3 科学技術評価の制度的選択肢

三 ルーマン派システムの一般的アプローチ ― 社会の音響学

  • 1 社会システムの基本イメージ
  • 2 システム間関係の基本イメージ
  • 3 システム論のイメージの転換
    • (一)社会システムのイメージの転換
    • (二)問題意識の転換 包摂/排除‐分析
  • 4 社会システムの作動 ― コミュニケーションの伝播
    • (一)コミュニケーションの周期
    • (二)複数のシステムの交差
  • 5 分析手順

四 政策過程における法システムと政治システムの交錯 ― 時間性の次元を中心とした統合的アプローチ

  • 1 法システム
  • 2 政治システム
  • 3 古典的な政策過程モデル
  • 4 科学システムと政策過程
    • (一)科学システム
    • (二)当事者代理型
    • (三)特別手続導入型
  • 5 科学評価制度の選択視点

おわりに

  • 1 リスク評価の法的枠組み
  • 2 対策原理
  • 3 リスクの概念

一読して、「各章の(とりあえずは量的な)バランスがおかしくね?」と思った。ので、ページ数を数えてみた。ら、それほどおかしくもなかった。(まぁ二はちょっとだけバランスを欠いて長いかもしれないが、大げさに言い募るほどのことはない。)

  • 初 p.02-10(08)
  • 一 p.10-25(15)
  • 二 p.25-50(25)
  • 三 p.51-67(16)
  • 四 p.68-88(20)
  • 終 p.88-92(04)

三が長すぎ、四が短すぎだと感じたのだが。

なぜそんな読後感をもったのかといえば、「三には要らないことが書いてあり、四には書かれるべきことが書いてない」と思ったからだ、・・・というのがありそうなことだが。さてさて?


ところで、一読して、「論文全体としてどういう仕事をしているのか」がわからなかったのだが、もう一読してみてわかったことには、この論文は、「社会システムの記述」をしているのではなくて、政策過程についての「モデルの評価」を行っている*のだった。こういうことは──こういう作業の意義とともに──冒頭付近とか 分析を始める直前あたりとかに ちゃんと書いておいてくれないと。

 「モデルの評価」というのは、換言すると、
  • 「制作過程の古典的モデル」をシステム論によって再記述したうえで、
  • そのモデルの内部で決まる事柄と決まらない事柄とを区別する、
という作業であるが、こうした作業について・ここですぐに指摘できる難点は、
  • この分析において、「社会的システム」(という概念)は、分析のための単なる資源=道具となってしまっており、それとしては分析されていない
ということである。
なにしろこのやり方は、「システム概念は──単に観察者が設定するモデルなのではなくて──現実に・実際に存在するところの対象をさすための名前である」というルーマンの綱領的ポリシーに反している。
 ここでいいたいのは「モデルの評価をしているから悪い」ということではない。そうではなくて、
  • ルーマンの議論を-ルーマン自身の綱領的ポリシーに反したやりかたで-道具として用いて-モデルの評価を-行うこと」には、疑問がもたれてよい筈であるし、
逆に、
  • ルーマンの綱領的ポリシーに従って「モデルの評価」を行うとすれば、どのような作業が必要なのかということは検討されてよいはずだ
というほどのことである。
もっとも、当のそのルーマン自身がおこなった「記述(なるもの)」の身分だって相当に怪しいのだから、まぁなにをかいわんや、という話はあるわけだが。


別の言い方をすると、この分析では、「法システムは〜〜のような事情になっている」とか「政治システムは〜〜だ」とかいった主張は、「ルーマンはそのように述べている」という以上の意義を持っていない。しかし──これが 異論をつける もっとも簡単なやりかただろうが──、ひょっとしたら ルーマンが法や政治について語ったことは、(一部であれ全部であれ)間違えているかもしれないではないか
もしもルーマンが間違ったことを述べていたら 著者はどうするのだろうか?
ルーマンが間違ったことを述べていないかどうかを、著者は どうやって判断するのだろうか?



課題

「はじめに」

[...] ルーマン派リスク論の現状を見ると、まず、原理論的研究とケーススタディーにはかなりの蓄積が見られるが、その間をつなぐ中間レベルの考察が不足しているのが目に付く。リスク社会化の挑戦を法秩序論一般の次元で受け止めようという本稿の構想からすれば、この欠落は決定的である。そして私見によれば、この欠落には原因がある。つまり、ルーマン派の理論状況において、システム間関係を分析するとはどういうことなのかについての了解が成り立っていないのである。科学評価制度の構想については、科学システムと法システムや政治システムの関係が問題にならざるをえないので、この点が隘路となる次第である。そこで、一方で、システム間関係を分析するための、抽象から具体への手順を明らかにしつつ、他方で、中間レベルにおいて他の理論傾向からの貢献を批判的に摂取するということが、当面の課題になる。したがって本稿では、

  • まず、事実次元に重点をおいた分析と社会性の次元に重点をおいた分析の成果を概観し、批判的に摂取すべき貢献を見定めたうえで(一と二)、
  • 次に、抽象から具体にいたるルーマン派の一般的アプローチを必要な程度で明らかにし(三)、
  • 以上の成果を総合する形でリスク社会における科学評価制度の選択パレットの概観を得るように努めたい(四)。[p.9]